歌手リリーの原点は神田ガード下 浅丘ルリ子の故郷
編集委員 小林明
映画「男はつらいよ」シリーズのマドンナ役として最も多く登場するのが、浅丘ルリ子さん(80)が演じた歌手リリー(計50作中で6回登場)。カラッと明るい姉御肌で、主役の寅さんと相思相愛の仲になるシリーズには欠かせない役どころだ。その役柄を生む原点になったのが、ルリ子さんが少女時代を過ごした東京・神田のガード下だったのをご存じだろうか?
実は、その懐かしい昭和の雰囲気を漂わせたガード下が耐震補強のために再整備され、姿を急速に変えつつある。現存していたルリ子さんの旧自宅は解体され、小中学校時代の同級生が営むすし屋やスナックも相次いで移転を余儀なくされている。「時間の流れは止められないから仕方がないわね。でもすごく寂しい……」と感慨深げに語るルリ子さん。
日本経済新聞朝刊に連載した「私の履歴書」や自伝「私は女優」に共同執筆者として携わってきた筆者が、「男はつらいよ」のリリーの誕生秘話のほか、東京五輪開催に向けて大きく変貌を遂げる東京・神田の下町や人間模様を追いかけた。
薄暗くジメジメした飲み屋街、今川小路が「心の故郷」
「今川小路」――。JR神田駅西口から線路沿いを南へ約250メートル歩くとルリ子さんが少女時代を過ごした懐かしい場所にたどり着く。写真の左手前に見える看板「大松」を掲げた2階建ての角地が旧自宅。「昼間でも薄暗くて、列車の走行音がひっきりなしに聞こえるジメジメした飲み屋街だった。そのガード下が私にとっての心の故郷なの」と振り返る。だが今では、小路の両側にあった店舗や空き家などはすべて取り壊され、柵に囲われた更地になってしまった。
今川小路は千代田区(鍛冶町)と中央区(日本橋本石町)の境界。かつては隅田川に抜ける竜閑川が流れていた。1950年ごろにこの川が埋め立てられると露天商が軒を連ねるようになり、仕事帰りのサラリーマンらが立ち寄る「隠れ家的な盛り場」として人気を集め始める。最盛期には居酒屋、焼肉屋など20軒弱が営業していたという。
戦後の混乱期、小学校から中学校にかけての多感な時期をルリ子さんはここで暮らした。
「裕福な生活」と「下町暮らし」、初恋の思い出も
満州の新京(長春)がルリ子さんの出生地。父親は大蔵省の高級官僚で満州に駐在していた。その後、赴任したタイで一家は終戦を迎え、命からがら日本に引き揚げてくる。茨城、千葉などに移り住んだ末、東京・神田のこのガード下に居を構えた。
「帰国後、代議士秘書や醸造会社の工場長をしていた父はストレスと過労で健康を壊してしまい、神田に移り住むことになった。生活はかなり大変だったけど、下町情緒が豊かでとても楽しかったわ」。生活を支えるために自宅でジャン荘「五月荘」を営んでいたという。
ルリ子さんは4人姉妹の次女。近所で美人と評判だったらしい。
「近くにステキなお姉さんが住んでいて、喫茶店でソーダをおごってもらったり、お化粧の仕方を教えてもらったり、とてもかわいがってくれたの。その弟さんが爽やかな男の子でね。私にとって初恋の人だったのよ」。神田には映画館がたくさんあり、妹たちを引き連れては時代劇や西部劇をよく見に行ったという。映画や音楽、踊りなど娯楽や芸能に触れるのに神田は格好の場所だったようだ。
外地での裕福な生活とつましい下町暮らし……。ルリ子さんは対照的な家庭環境をどちらも経験している。あのあか抜けたハイカラな雰囲気と姉御肌で飾らない庶民的な性格は、こうした生い立ちとともに自然に形成されてゆく。
生い立ちがリリーを生んだ、山田監督が役柄を変更
寅さんシリーズのリリー役はどんな経緯から生まれたのだろう?
取材すると、役柄をひらめいたのは山田洋次監督だったそうだ。「舞台が北海道なので、最初はルリ子さんに牧場で暮らす女性の役を演じてもらう予定だったんです。でもルリ子さんに『私、こんなに細い腕なのに、牛の乳搾りなんてできるかしら』って真顔で聞かれたから、『それもそうだな』と思い直し、地方のキャバレーでよく見かける売れない歌手の役はどうだろうと思い付いたんです」。リリーの誕生秘話について山田監督はこう語る。
ルリ子さんが神田に住んでいたことを知らなかったようなので、少女時代の下町暮らしの様子を山田監督に詳しく伝えると、「へえ、そうでしたか……。分かる気がしますね。ルリ子さんが醸し出す下町育ちっぽい雰囲気が、リリーを生み出す下地になったのは事実。彼女の生い立ちが絶妙に関係していたんですね。それは興味深い話です」と納得した表情でうなずいていた。
ルリ子さんは中2のときに日活映画「緑はるかに」のオーディションで2千数百人の応募者の中からヒロインに抜てき。以来、小林旭さんや石原裕次郎さんの相手役としてスター街道を一気に駆け上がる。
人気女優になっても偉ぶらない、皆に慕われた姉御
小中学校の同級生でルリ子さんの旧自宅の真正面に住んでいたというのが梶山健一さんだ。「もともとお父さんも芸事が好きだったので、娘が女優になったことをとても喜んでいた。ルリ子さんは人気女優になっても全然偉ぶったところがない。リリーさんみたいにサバサバしていて、姉御として皆に慕われていたね。神田から日活のスタジオに近い東京・調布に大きな屋敷を建てて引っ越すんだけど、よくそこに居候させてもらったよ」と懐かしそうに話す。
調布の自宅には石原裕次郎さん、小林旭さん、二谷英明さん、宍戸錠さん、高橋英樹さんら日活俳優が出入りし、合宿所のようなにぎわいだったそうだ。ボクサーの海老原博幸さんやカントリー&ウエスタン歌手で俳優の小坂一也さん、女優の大原麗子さんらも入り浸り、皆で楽しいひとときを過ごしたという。
ちなみに、加山雄三さんの「若大将シリーズ」のヒロイン役で活躍した東宝の看板女優、星由里子さん(2018年5月死去、享年74歳)も神田(鍛冶町)出身。加賀まりこさんも神田(神田小川町)出身。3人は大の仲良しだった。神田は大女優を輩出する土地でもあるようだ。
星由里子、加賀まりこ… 東京・神田は大女優の輩出地?
梶山さんはJR神田駅南口近くでスナック「るり」と「次郎長寿司」をずっと営んできた。「るり」の由来は、もちろん浅丘ルリ子さんの名前。ルリ子さんも「るり」や「次郎長寿司」に何度か顔を出したことがあるそうだ。だがどちらの店も再整備計画で立ち退きを余儀なくされ、今年2月下旬に閉店。数十メートルほど南のガード下に移転し、3月から新たな店構えで営業している。
「ルリ子さんの旧自宅も、その正面にあった自分の昔の家も、残念ながら解体され、駅のすぐ脇の店も移転を余儀なくされた。とても寂しいよね。でも目をつむると、昔の光景が鮮やかによみがえってくる。懐かしい思い出は心の中で輝いているよ」としんみり語る梶山さん。
新装オープンした「次郎長寿司」でお任せコースを握ってもらった。「おいらもまだまだ元気に仕事を続けるつもり。コロナ禍が少し落ち着いたら、またルリ子さんに店に遊びに来てほしいって伝えておいてよ」とニッコリ笑う。時代は変わっても、温かい人情は変わらない。梶山さんの握ったすしには、そんな下町の粋な心意気が込められている気がした。
(編集委員 小林明)
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。