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U22
青春のギャラリー

2021/5/14

青春のギャラリー

S先生についで木下の才能に気がついた大瀧は、ほかにも何かと気にかけてくれた。自身の師である彫刻の大家・木内克のアトリエで指導をあおぐよう、東京への夜行列車の往復旅費をだしてくれる。14時間かけて東京へ朝早く到着すると、家出少年とまちがわれて警察に拘束された。天下の木内のアトリエに行くのが本当だとわかると、以後年2度ほどの上京では朝、いつも警察署で温かい食事やお茶を出してくれることに。木内は中学生を同じ芸術家どうし、自身と対等な仲間としてむきあってくれた。すっかり感激した木下は、上野の国立西洋美術館にあるロダンやマイヨールをしっかり見よとの指導にしたがい、いっそうの学びを得ている。

中学3年のとき、父親を工事現場の事故で亡くした。実質的に母ひとり子ひとりの境遇、それも疎ましくてならない母のめんどうを木下が見なければならないということに。亡き父は、親戚中からも嫌われる母を、いつも取っ組みあいの夫婦げんかをしながらなぜ追い出そうとしなかったのだろう。木下は、ひとの心の闇ふかくを見ようとする習性が身についていった。受験勉強はほとんどせず、しかし経済的なメドをつけてなんとか地元の農業高校に進学する。ただし、そのころ彫刻制作を断念した。材料や設備にカネがかかりすぎる。美術なら、あとは絵画しかない。でも、油彩画はやはり絵の具代がたいへんだ。水彩画では小・中学生の延長になってしまう。どうしようか。

五輪前日に「木下、おまえ何を」

彫刻家は無理でも、いずれなんとか油彩画家になろう。それにしても、いまは絵の具代がまかなえない。油絵らしく見せられる安価な材料はなんであろう。それはクレヨン画だという結論に至る。クレヨンなら知りあいの小学校の先生から、生徒がつかった残りを山ほどもらうことができた。キャンバスはやはり高価なので、工事現場からくすねたベニヤ板に描こう。1964年(昭和39年)、高2の夏休みに父親ちがいの姉をモデルに本作品《起つ》を描く。大瀧に見せると、やはり木下の才能を直感し、東京の作家にみてもらいなさいと旅費をくれた。木内を訪ねると、「絵だったら麻生三郎君に」と武蔵野美術大学教授の洋画家を紹介される。さっそく麻生のアトリエに自作をもちこむと、麻生は論評らしい論評をしない。かわりに、いま作品受付中の自由美術家協会展に応募すべく東京都美術館にすぐもっていきなさい、この絵なら必ずや入選するといって紹介状を書いてくれた。同展には戦前から絵画作品でも油彩画にこだわらぬ伝統があったのも幸いする。

富山へもどって何日かすると、英語の授業中に担任教師が「木下、おまえ何をやらかしたんだ」と血相をかえて教室に飛びこんできた。なにか問題をおこしたにちがいない、と。新聞記者が学校におしかけてくるという。ところが、校長室で記者会見が急遽(きゅうきょ)設定される。翌日、くしくも東京オリンピック開会式の日、新聞に「木下君みごと入選 自由美術展 高校生で初めて」「顔いっぱいに喜びの木下君」の見出しがおどった。人生の逆転サヨナラ満塁ホームランを放った気分に。ただ、自分は中学二年生から本格的なデッサンを学んでいたので、本当はそれほど驚くことではないと冷静にとらえもした。同展史上最年少、17歳の若さとはいえ、同級生たちとはまるでちがう人生経験も自分のなかに落としこんでいる。学校の通知表とは別に、なにごとも独立独歩で自分自身をきたえてきたのだ。当時、名のある公募展は入選すればプロの画家と認められるほどの権威があった。地元なら名士あつかいもされる。しかし、木下の心の中はちがっていた。

「自由美術展には、わけもわからず麻生三郎先生にいわれるまま出品してみた。出品料など麻生先生がそっと払ってくれていたのだろう。無我夢中で描いた作品。使いすてられたチビた短いクレヨンでも、描きにくいということはなかった。時間がないとかいろいろ条件をつけたがる人間は、けっきょくその分野の才能がないということ。自分の取りくんでいることが本当に好きでないと、決してものにはならないと思う。くわえて、なんらか知性をみがかなくてはならないのではないか。学校の成績の話とはちがう。どんな経験や思索も、しっかりと自分のものとしていかねばならない。その点、大瀧先生、木内先生、麻生先生、それに大瀧研究室のサロンで、それぞれの分野の一流のひとたちと交流させてもらったのが、自分の画家人生にとって決定的であった。また、大瀧研究室では、正式な鋳造作品ではないとはいえロダン、ブールデル、マイヨールという近代彫刻三大巨匠のブロンズ作品などに身近に接することができたのも、たいへんありがたかったと思う。いずれにせよ、どんな分野でも一流を知れば、どこか自分の専門分野に通じてくるもの。さらに言えば、一流のひとはけっして安易な批評などしない。優しく見守ってくれるものだ」

「天才画家の出現」とされてからほどなく、親族の相続問題にまきこまれて収監されてしまうなど、けっきょく高校を2年で中退する。麻生からはとにかく高校を卒業さえすれば武蔵野美術大学に特待生で入れ、生活費も心配しなくていいとまで言われていたものの、人生はふたたび、それもいっきに暗転した。だが、看板職人やパン職人などをへながら必死に油彩画を制作していく。いつも不思議な縁にささえられつつ、絵画の、人生の力をいっそうつけていき、ついには30代なかばで独自の鉛筆画に取りくむようになった。自分の方法論にたどりついたのである。以後、それをもとにますます自身の世界をひろげていった。こんにち木下は、中学や高校の美術教科書に作品や本人が紹介されるばかりでなく、中学の道徳教科書でとりあげられるなど、より大きく社会的な存在となっている。

(敬称略)

中山真一(なかやま・しんいち)
1958年(昭和33年)、名古屋市生まれ。早稲田大学商学部卒。42年に画商を始め61年に名古屋画廊を開いた父の一男さんや、母のとし子さんと共に作家のアトリエ訪問を重ね、早大在学中から美術史家の坂崎乙郎教授の指導も受けた。2000年に同画廊の社長に就任。17年、東御市梅野記念絵画館(長野県東御市)が美術品研究の功労者に贈る木雨(もくう)賞を受けた。各地の公民館などで郷土ゆかりの作品を紹介する移動美術展も10年余り続けている。著書に「愛知洋画壇物語」(風媒社)など。

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