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青春のギャラリー

ベニヤ板にクレヨンで描いた17歳 一流の大人に導かれ名古屋画廊 中山真一

2021/5/14

青春のギャラリー

木下晋《起つ》(1964年、114×88センチメートル、クレヨン・ベニヤ板、神奈川県立近代美術館葉山蔵)
才能や感性を鋭く問われる画家らアーティストは、若き日をどう過ごしたのか。ひとつの作品を手がかりにその歩みをたどる連載「青春のギャラリー」。ガイド役は名古屋画廊社長の中山真一さん(63)です。中山さんは「いつの世もアーティストが閉塞感を突破していく。自分を信じて先人を乗り越えていく生き方は、どんな若者にも道しるべを与えてくれるのではないか」と語ります。(前回は「33歳までの長い助走 回想の画家、重ねた心のスケッチ」

なんとも異様な雰囲気の画面だ。うしろむきに立った女。両腕をうしろに組んで、なにかを見つめているのだろうか。ゴツゴツとデフォルメ(変形)された筋肉表現。女には、強い意志があるようだ。それにしても、ただならぬ印象は画面全体から放たれている。女が前むきなら、顔から足までの各部位が、ものを言いすぎることになったかもしれない。女はむせかえるような周囲の空間と一体になっている。あくまで画面全体を問題にして見るべき絵なのであろう。大きなベニヤ板にクレヨンで描くというめずらしい組み合わせ。クレヨンは、ベニヤの板目をつぶしながら、くすんだ色調でこれでもかと画面全体に分厚く塗りこめられた。見るほどに、有無を言わせぬ若い力が迫ってくる。

複雑な家庭環境、中2で転機

この作品《起(た)つ》(1964年作、クレヨン・ベニヤ板)の作者である木下晋(きのした・すすむ)は、1947年(昭和22年)に富山市で生まれた。戦後2年目、団塊世代の走りである。終戦間際の富山大空襲で街は焦土と化していた。焼け野原の情景は、幼い目にいやがおうでも焼きつくこととなる。ひとが芸術家として立つに際し、木下がもっとも得がたい感覚だとする「生と死の境界」が、早くから無意識のうちに刻まれていった。「赤ちゃんが泣いている。怖いよ、父ちゃん」。幼少のころ、床につくと家のまわりの空き地から赤ん坊のすすり泣きが聞こえてきたという。少年期になると、東に見える雄大な立山連峰、その急峻(きゅうしゅん)な岩稜や、西日で赤く燃えたつ雪の山頂に、いつも心をゆさぶられた。「俺はあの山を越えていくんだ」

家は貧しかった。家庭環境も複雑である。父親はとび職。弟は幼くして餓死、兄は家出をくりかえす。自身も小学生のときパンの万引きで児童相談所のやっかいに。3度目の結婚であった母は放浪癖があり、木下が中学1年のとき長い放浪から家に帰ってきた。家事ができず風体もみすぼらしくて、実の親子でもまったくなじめない。山裾の竹やぶの中にたつ小さな番小屋に住んでいた小学校時代など、母性とは竹やぶのなかで感じるものであった。静かで母親の胎内にいるように思えた。将来の夢といっても、経済的な事情で高校には行けないだろうし、背広をきたサラリーマンになるのはなおさら考えられない。自分の得意なもので身を立てていこう。それは何なのだろうか。

中学2年のとき、転機がおとずれる。美しい女性美術教師Sが学校に現れた。1年生のとき美術の成績は5段階評価の「1」。課題作品を提出せず、授業にもあまり出ていなかった。夏休み前、S先生から誘われる。「木下君。夏休みを返上して学校に彫刻を作りに来ないかな」。毎日ラーメンをごちそうしてくれるとも。家にいても貧しさゆえ昼食ぬき。ならば学校へ行こう。美人先生にも会える。教えられるでもなく男性モデル(同級生)をさまざまな角度から凝視した。遠慮もなく「こっち向け」「あっち向け」と。ひと夏かけて作った粘土による頭部彫刻。それを石膏(せっこう)に取って、彫刻家で富山大学教育学部助教授・大瀧直平のもとへS先生が連れていってくれた。すると大瀧は地元の「少年少女美術展」に応募することをすすめてくれる。結果、みごと特選をとることとなった。

鷹揚(おうよう)な性格の大瀧は、毎週土曜日の午後、大学の研究室を卒業生や一般市民に開放し、毎回15、6人が彫刻やデッサンに取りくんでいた。木下はここで初めて女性の裸(モデル)をみる。母親は幼少期から家を出ていたので、母のそれさえ見たおぼえがなかった。また、大瀧の研究室は学部を越えた教官陣のサロンとなっており、土曜日の午後は彼らが集まって自分の専門分野なりの見方で作品を評するのが、木下にとってたいへん刺激的に思われた。以後、毎晩のように研究室に通わせてもらい、彫刻を学ばせてもらっている。

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五輪前日に「木下、おまえ何を」
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