日経ナショナル ジオグラフィック社

標準モデルの先にあるものを求めて、物理学者たちは長年、実験によって標準モデルの限界に挑んできた。しかし、どれだけ検証を重ねても、標準モデルが破綻を見せることはなかった。例えば、高エネルギー現象の測定を続けている欧州合同原子核研究機構(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)では2012年に、標準モデルが予測していたヒッグス粒子(ほかの粒子に質量を与える重要な役割を果たす粒子)を発見している。

LHCの実験では、粒子どうしを衝突させて新しい種類の粒子を生成させるのに対し、フェルミ研究所のミューオンg-2実験では、既知の粒子をきわめて高い精度で測定することにより標準理論からの微妙なずれを探っている。

「LHCの実験は、2つの精巧な時計を高速でぶつけ合い、飛び散った破片を拾って、中にどんな部品があったのかを調べるようなものです」とランカスター氏は説明する。それに対して「ミューオンg-2実験では、精巧な時計の動きを丹念かつ詳細に調べて、期待どおりに動いているかどうかを調べるのです」

ミューオンは、新しい物理学の兆候を監視するのに最適な粒子だ。ミューオンの寿命は実験室で詳細に調べられる程度に長く(と言っても50万分の1秒だが)、電子によく似たふるまいをすると予想されているが、質量が電子の207倍もあるため、重要な比較対象となっている。

研究者たちは何十年も前から、ミューオンの磁気的な歳差運動がほかの既知の粒子からどのような影響を受けているかを詳しく調べてきた。

量子スケール(個々の素粒子のスケール)では、エネルギーのわずかな変動は、広大な泡風呂の中の泡のように生成しては消滅する粒子のペアとして現れる。標準モデルは、ミューオンがこうした「仮想」粒子の泡と相互作用すると、歳差運動が約0.1%速くなると予測している。この変化は「異常磁気モーメント」または「g-2」と呼ばれる。

しかし、標準モデルの予測の精度は、宇宙にどのような粒子が存在しているかによって変わってくる。例えば、宇宙に重い粒子がもっと存在しているなら、ミューオンの異常磁気モーメントもおそらく実験室で測定できる程度に変化する。

ミューオンの研究は「新しい物理学を探り出す最も包括的な研究であると言えます」と、ミューオンg-2実験チームのメンバーであるドイツ、ドレスデン工科大学の理論物理学者ドミニク・シュテッキンガー氏は語る。

ミューオンビームと磁場

ミューオンg-2実験は、ミューオンビームを作ることから始まる。ミューオンビームは、陽子どうしを衝突させ、その際に発生する素粒子の破片を慎重に取り除くことによって作られる。続いて、このビームを重さ14トンの貯蔵リングの中に導入する。ちなみに、このリングはもともとブルックヘブン研究所の実験で使われていたもので、2013年にニューヨーク州ロングアイランドからイリノイ州まで、はしけとトラックで輸送された。

一様な磁場をかけられた貯蔵リングの中をミューオンがぐるぐる回ると、歳差運動をするミューオンが崩壊してできた粒子が、内壁に沿って設置された24個の検出器に衝突する。この崩壊粒子がどのくらいの頻度で検出器に衝突するかを調べると、もとのミューオンがどのくらいの速さで歳差運動をしていたかを知ることができる。遠くの灯台が暗くなったり明るくなったりするのを見て、その回転速度を知るようなものだ。

ミューオンg-2実験は、ミューオンの異常磁気モーメントを140PPB(1PPBは10億分の1)の精度で測定しようとしている。これはブルックヘブンでの実験の4倍に相当する精度だ。科学者たちは同時に、標準モデルに基づく最高の予測を行う必要があった。2017年から2020年にかけて、米イリノイ大学のアイーダ・エル・カドラ氏を中心とする132人の理論物理学者が、これまでで最高の精度でミューオンの歳差運動を理論的に予測したが、その数字は測定値よりも小さかった。

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新たな物理学の始まり?
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