また、この授業を行う以前に、高度な知能を持つといわれたチンパンジーのアユムのドキュメンタリーを見ていた。こちらは生き物との比較から「人間とは何か」という問いに迫る意図があったという。生き物と人工物の両面から、「人間」という概念を挟み撃ちにしようというわけである。

映画を見ながら「哲学ゾンビ」の思考実験

「動物とロボットの両面から迫ると、人間という当たり前に規定されていた確固たる概念がよくわからなくなります。人間は動物であるけれども他の動物との違いを感じるし、ロボットではないのはたしかだけれど、限りなく人間のように振る舞うロボットの存在がいると仮定するとロボットと人間の境界線は曖昧になります」(平松さん、以下同)

映画を見ながら、生徒たちがときどきツッコミを入れる。平松さんもときどき合いの手を入れる。

「映画のなかでアンドリューはクオリア(質感覚)をもつ特殊なロボットとして描かれていますが、一般的には、ロボットと対話するというのは『哲学的ゾンビ』すなわちクオリアのないものと話しているということです。が、仮にクオリアをもっていようがもっていまいが、人間とコミュニケーションを違和感なく交わせる存在は限りなく人間に近づいていくと考えられます」

1958年につくられたカトリックのミッションスクール

「哲学的ゾンビ」とは構造や行動は人間とそっくりそのままなのに実は主観的意識やクオリアを持たない架空の存在のことで、哲学的な思考実験に使われる用語だ。映画のなかには主人公のアンドリューとは別に、文字通りの哲学的ゾンビのアンドロイドも出てきて、その対比が示唆に富む。映画のなかのロボットエンジニアが言う。「人間らしく見せるコツは、あえて欠点をつくることだ」。もちろんフィクションではあるが、思考実験として深い示唆が得られる。

「アンドリュー」を見終わった次の授業で、「人間とは何かを考察し論じなさい」という課題に取り組む予定。「宗教と科学」の最初の授業で投げかけたのとまったく同じ問いである。同じ問いを違うタイミングで投げかけるのは、違う視点から同じ問いを考え直すと、新たな気づきに出合う可能性があるからだ。

平松さんの授業が「科学の本質的態度」を問おうとするものであるとするならば、それは、世の中には「科学のような何か」が蔓延(まんえん)していることの裏返しである。2つを分けるものは何か。授業後、平松さんに問いをぶつけた。「うーん。難しい質問ですねえ。私の考えでしかないですけれど……」と言いつつ、平松さんが語り出したのは、キリスト教などの宗教における「偶像崇拝禁止」にまつわる誤解についてであった。

「勘違いされやすいのですが、偶像崇拝禁止というのは、物質として像を作って崇(あが)めちゃいけないという意味だけではないんですね。偶像の語源は『アイドル』だし、さらにたどればラテン語の『イドラ』です。自分の中で都合良くつくりあげてしまったイメージのことをいいます。つまり偶像崇拝禁止とはもともと、自分に都合良く神を解釈したり信仰したりしてはいけないという教えです」

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自分では気づけない視点に引っ張り出すのが学校
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