中山雅史さん ケガと闘い現役にこだわり続けた日々
不屈のサッカー人生(上)
2020年に初の自叙伝『再起は何度でもできる』(PHP研究所)を出版した中山雅史さん(53)。2大会連続でW杯に出場し、1998年のフランスW杯のジャマイカ戦では日本人選手としてW杯初ゴールを決めた。得点王としても名をはせ、記録と記憶に残るプレーで私たちを魅了したが、ケガが絶えず、手術やリハビリの繰り返しで苦しんだ。2015年からアスルクラロ沼津(現在はJ3)に選手として所属していたが、2021年1月古巣のジュビロ磐田(J2)のコーチに就任。「プレーヤーとしての練習はひとまず休む」と語り、これは引退ではないという。アスルクラロでは痛みでピッチに立てない中、なぜ現役にこだわり続けたのか。そして、ケガによるメンタルの低下と、どのように闘ってきたのかを伺った。
――今年1月まで選手としてアスルクラロ沼津に所属し、現役にこだわられた中山さんですが、常にケガと闘いながらプレーされてきた印象が強いです。
僕のプレーはアグレッシブにボールを追い求めるスタイルなので、試合中に相手と激突して流血や骨折することとは常に隣り合わせでした。1999年のコパ・アメリカ(南米選手権)の直前合宿をアルゼンチンでしていたとき、練習試合で相手選手のつま先が右眼の下を直撃し、眼窩底骨折という右眼を包んでいる周りの骨の薄い部分が折れて、手術したこともありました。そのほか膝の故障や手の骨折などで何度も手術を受けましたが、長年苦しんできたのはやはり膝のケガです。
大学を卒業してヤマハ発動機に入社した翌年の1991年に、右膝の内側側副靭帯と半月板を損傷し、それ以来、両膝をそれぞれ2、3回ずつ手術しました。痛みをなくして早く復帰したい一心で手術を繰り返したら、削っていくうちに両膝の半月板がほとんどなくなってしまって。骨同士が当たって軟骨もかなりすり減りました。
42歳で当時J2だったコンサドーレ札幌に移籍したとき、半月板がないので大腿骨と脛骨(けいこつ)がぶつかって激痛が走って炎症を起こす骨挫傷(こつざしょう)にも悩まされました。また、仮骨(かこつ)という不完全な骨様組織もできていて、それがささくれのように引っかかるため、膝の曲げ伸ばしもうまくできませんでした。痛みで思うように体が動かず、チームに貢献できなかったことが情けなかったですね。
iPS細胞で半月板は再生できるのか
――2020年に出版された中山さんの初の自伝では、京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥さんとの対談が収録されています。やはりケガとiPS細胞をメインでお話しされていますが、どんな感想を持たれましたか。
山中さんとお話しできる貴重な機会をいただいたので、iPS細胞とケガをテーマに質問しました。山中さん自身もマラソンにチャレンジするランナーで、膝の痛みを抱えながら練習されているらしく、僕らが抱く不安や悩みを理解したアスリート目線でお話しくださるし、何を聞いても分かりやすく答えてくださる。"一家に一台"じゃないけれどいつも側にいてほしいくらい、ずっとお話を聞いていたい方でした。
――iPS細胞による再生医療に関心があったのでしょうか。
そうですね。僕自身、長年ケガに悩まされ、さまざまな手術や治療、リハビリに挑戦し続けてきたので。膝の痛みがこの先もっとひどくなったら、人工関節を膝に入れなければいけないかなと思っていたのです。
――人工関節を膝に入れてプレーができるのですね。
海外のサッカー選手では事例があります。ただ、人工関節の寿命は15~20年ぐらいで、サッカーをすれば5年も持たないだろうと思います。それに、今の医学の技術では人工関節の入れ替えの処置は2回しかできないと聞いたことがあって。2回以上やれば骨を削ることになり、脚の長さが変わってしまって車椅子生活になるそうです。
だからもし近い将来、iPS細胞を使った半月板の再生が可能なら、人工関節置換手術に代わる選択肢になると思い、「iPS細胞で半月板が再生できるのか、もしできるならいつ頃か」と質問したのです。すると、「半月板はデリケートすぎるので、まだまだ難しい」との返答でした。ただ、iPS細胞を使った軟骨の再生は実現の可能性が高く、それなら人工関節を入れなくても済むかもしれないとも教えていただきました。いつになるか分かりませんが、僕は150歳まで生きる予定なので(笑)、iPS細胞から作った軟骨の移植が1日でも早く実現することを期待しているとお伝えしました。
「運動しながら回復を待つ」というやり方
――そのほか山中さんとの対談で、特に印象深かったお話は?
ケガの治療に対する考え方でしょうか。例えば、ケガをして整形外科で診てもらうと、「しばらく休んでください」と言われ、お薬をもらいます。痛みをなくすには休むことが一番だと頭では分かっているのですが、休むと積み上げてきたトレーニングがリセットされるようで怖いんです。
しかも年齢を重ねるほど、積み上げたものを取り戻すのはとてもつらい作業だと分かっています。休んで痛みが和らいでも、練習を再開するとまた痛くもなる。だから、長年お世話になっているリハビリチームの知恵と手を借りながら、膝に負担がかからないように「動かしながら回復を待つ」トレーニングを実践してきました。しっかり休むことが大事だと思いつつも、トレーニングしながら治せないかという矛盾と闘ってきたんですよ。
――具体的にどのような方法ですか?
多くの診察や治療、リハビリを受けて分かったのは、痛みの原因は負傷した部位だけでなく、そこにつながっている関節や筋肉といった他の部位や動かし方にもあるということでした。「膝が痛いのは、脚全体や股関節の動かし方にも問題がある」とリハビリトレーナーから指摘を受け、膝への負担を減らすために股関節や足首を柔らかくするトレーニングを続けてきました。もちろん骨折などは安静が必要ですが、体の構造から痛みの原因を考え、「動かしながら治す」というやり方に、山中さんも共感してくださって。自分がやってきたことは間違いではないと証明されたようで、うれしかったですね。
半月板がない状態で走るための裏の努力
――半月板も軟骨もほとんどない状態で走れるのが不思議ですが、具体的にどんなトレーニングをされているのでしょうか。
年2回ほど膝のMRI撮影をしてくださるお世話になっている医師からも、なぜ走れるのか分からないと言われます。大腿骨と頚骨がぶつかって痛いし、やっぱり怖いです。だけど走れるんです。
僕はX脚なので、走るときに軸足の膝が内側に入ってしまい痛みが出てしまいます。でも、お尻の力を入れると軸足の膝は外側に向きます。だから、お尻の筋肉を鍛えてステップを踏むようなトレーニングをしています。あとは、足の指で体重を支えられるような力がつけば、膝への負担が多少なりとも和らぐという考えから、足の指を曲げて丸めたまま立つトレーニングもしてきました。
――足指を丸めたまま立つ!?ですか。
バレリーナは足のつま先で立ちますが、足の指を丸めた状態で立つんです。こんな感じですね(右写真)。
例えば、拳を作ると力が入りますよね。それを足の指でするイメージです。これができれば、走ったときに地面から受ける衝撃を和らげることができ、膝への負担が軽くなるという理屈です。リハビリトレーナーのアドバイスで始めましたが、全体重が足の指にかかるので、最初はめちゃくちゃ痛くて指が腫れたし、立つことすらできませんでした。努力と根性でやるしかないと言われ、毎日地道に続けた結果、今はこの状態で歩けるようになりました。
痛くて地味なトレーニングを続けてきたわけですが、せっかくアスルクラロ沼津に入団させてもらったのに試合に出るところまでいけませんでした。情けないとふがいない気持ちが常にありました。
ピッチに立てなくてもトレーニングを続ける理由
――なかなかピッチに立てない中で、どうして孤独でつらいリハビリ生活を続けられるのでしょうか。
約8年も公式戦から離れているので、ピッチに立つのはなかなか難しいなと思う自分もいました。でもやっぱり純粋にサッカーが好きで、グラウンドに立ってみんなと練習したいから続けているんですよね。その先に試合があるのでしょうが、そこまで考える余裕はありませんでした。
「きついなあ、これだけやっても先が見えてこないよ」 と、どうすればいいのか迷うことも一度や二度ではありませんでした。リハビリ中に痛みが出たら不機嫌になったり、筋トレの効果がなかなか現れなくて一歩ずつ上に登っていくことしか考えていませんでした。本来、トレーニングし続けることで結果に結びついて、自信につながりますが、そうした練習の成功体験も今ではマイナスになる場合が多く、トレーナーからは「昔の成功体験は忘れてください」と言われました。
葛藤がないと言ったら嘘になりますが、それでも「自分がやりたいことは何か」と考えると、やっぱりサッカーがやりたい。それがしんどいならやめればいいだけです。僕は、ただサッカーをやめることが嫌だから挑戦してきました。とすれば、自分が好きで挑戦しているのに、モチベーションが湧かないと口に出すのはおかしいだろうと思うわけです。
――ネガティブな気持ちが続けば、ストレスがたまりそうですが。
たまりますが、考え方次第だと思います。例えば、僕がやってみて意外と効果があったのは、自分をカッコいいと思い込むこと。そして、自分の熱狂的なファンになることです。黙々とリハビリしている姿を人が見たら「ケガと闘っている中山、かっこいいと思うんじゃないかな」などと、勝手に思い込む。誰も見てなくても、「こうした地道な努力が本当の力になる」と、今まで以上に強くなった自分を想像しながら、自分で自分を盛り上げる。そんなイメージでリハビリトレーニングに取り組んできました。
50歳を超えてもアスルクラロ沼津という練習やリハビリできる場を与えてもらったのですから、そこに感謝して自分のやれることを精いっぱいやらなければいけないとも思っていました。何より後で「あの時、こうしておけば」という後悔を少しでもなくしたい。後悔する歳でもないんですけどね。
(次回に続く)
(ライター 高島三幸、写真 厚地健太郎)
1967年生まれ。静岡・藤枝東高、筑波大学を経て、90年にヤマハ発動機サッカー部(現・ジュビロ磐田)に入団。98年、Jリーグ年間最多の36ゴールを記録(当時)し得点王と最優秀選手(MVP)、2000年にも得点王に輝く。98年フランスW杯、2002年日韓W杯の2大会に出場し、98年フランスW杯のジャマイカ戦で日本人選手としてW杯初ゴールを決めた。2010年コンサドーレ札幌に移籍。12年第一線を退くことを発表。15年アスルクラロ沼津と契約。20年S級ライセンスを取得。21年ジュビロ磐田のコーチに就任。新著に『再起は何度でもできる』(PHP研究所)。
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