
太平洋に面した旭市の死者・行方不明者は、津波被害の大きかった飯岡地区を中心に16人。東北の沿岸部の町と同じ苦しみに襲われた故郷について、立山さんは「置いてけぼりになっている」と感じてきたという。
――「故郷の1枚」にかわいらしい写真を選ばれました。いつごろのものですか。
「私が3歳くらいのころ、祖父母の家の庭で撮影したものです。両親が仕事から帰るまで、昼間ずっと預けられていた家でした。津波の後、アジサイの咲いていた庭は更地になり、近所の家も多くがなくなってしまって、この家の建物だけぽつんと残されました。この写真を見たとき、当時の風景は津波に流されてもうないんだと、しみじみ感じたのです。それで選びました」
――2011年3月11日の震災発生時はどこにいましたか。
「旭市立飯岡中学校2階の教室にいました。ちょうど卒業式の前日。配られた卒業アルバムにみんなで寄せ書きなどをしていたタイミングで大きな揺れが来ました。校舎も建て替えが必要と言われていた時期で、こんなに動く机の下で助かるのか、と。人生で初めて私の命は大丈夫かなって思いました」
「いったん揺れがおさまると、荷物は全部放置してグラウンドに出ました。海が目の前の校舎でしたから、津波の危険を避けるため、なるべく(海から離れた)奥の方、高い方へとみんなで走って避難しました」
卒業式の校庭に漁船
――自宅にはどのように戻ったのでしょうか。
「たまたま半年前に高台に引っ越していたんです。そこで同居するようになっていた祖父が、全校で一番の早さで迎えに来てくれました。1960年のチリ地震で地元に津波が来たのを見ている祖父は『絶対に海の方に行っちゃいけない。家から動かないでくれ』と。なので私は津波そのものは見ていません。家の中はしっちゃかめっちゃかになっていましたが、家族は無事でした」
「私が次に学校を見たのは、延期されて3月18日になった卒業式のときです。浸水した床の上を片づけた体育館で開かれましたが、校庭はがれきだらけで、津波で乗り上げた漁船も残っていました。すでにがれき撤去を手伝っていた友達もいたのに、私は家族に止められたのを理由に行動しなかった。それはずっと後悔として残りました」