日経ナショナル ジオグラフィック社

コナール・サンダル北と同南と名付けられた2つの人工の塚には、礼拝所と城塞の遺構が埋もれていた。考古学者たちは2000年代初頭にこの遺跡の正式な発掘作業を開始した(MOHAMAD ESLAMI RAD/GETTY IMAGES)

芸術と文字に見られるメソポタミアとの類似

ジーロフト遺跡で発見された芸術作品の複雑さと美しさに、考古学者たちは感嘆した。数百点の器に見られる装飾的な図像は象徴性に富み、サソリ、雄牛、ワシ、ヘビ、大洪水などのモチーフには、メソポタミアの伝統的なモチーフとの強い類似が見られた。

サソリの図像は、古代都市ウルの王墓(紀元前3千年紀中期)に描かれたサソリ人間に似ている。また、ウシ人間のモチーフは『ギルガメシュ叙事詩』に登場するエンキドゥを思わせる。これらの強い類似性は、ジーロフトとメソポタミアが文化的伝統を共有していたのではないかと推測できるほどだ。

なかでも際立つのは、ひっくり返った雄牛の上に浮かぶワシや、ワシとヘビの格闘といったモチーフだ。これらはジーロフト遺跡で発掘された多くの器に見られ、メソポタミアでよく知られたキシュの牧人王エタナの伝説を思い起こさせる。『シュメール王名表』によれば、キシュは大洪水の後に最初に王権が成立したとされる。その大洪水のモチーフも、ジーロフトの遺物の中にいくつか見られる。

コナール・サンダル南の城塞への入り口の一つからは、文字が刻まれた粘土板の破片が発見された。そこから北に150メートルほど離れた場所からは、テキストが2種類の書記体系で記された粘土板が3枚発見された。1つの書記体系は、メソポタミアとの国境にあったエラム王国の都市で使われていたエラム線文字に似ている。もう1つはこれまでに知られていない文字であり、幾何学的な形をしている。この発見から、ジーロフトの人々が文字を使っていたことは明らかだ。

ジーロフトの正体は?

2003年、密売人から押収された膨大な考古学的遺物のコレクションを調べたマジシザデー氏は、興味深い仮説を提唱した。遺跡の観察と古代メソポタミアの楔形文書の研究を根拠に、古代のジーロフト近郊にあった都市は、数多くのシュメールの詩でその富を讃えられた都市「アラッタ」であると主張したのだ。

ある古代文献には、アラッタとメソポタミアの都市ウルクとの紛争について記されている。記述の中のアラッタは活気に満ちた場所で、「城の胸壁は緑色のラピスラズリで、高く積まれたレンガは鮮やかな赤い色をしていて、レンガ用の粘土は山から掘り出された錫(すず)石から作られている」と説明されている。

マジシザデー氏は、ジーロフトがアラッタであるという自説に有利な要素として、山に囲まれた地理的位置、半貴石の豊富さ、文明度の高さなどを挙げている。この説に対しては、確たる証拠がないという批判がある。実際、アラッタについての文献はシュメールの詩があるだけで、青銅器時代の神話にすぎない可能性がある。

ほかにもジーロフトはマルハシ王国ではないかという説もあり、こちらは複数の記録が根拠となる。最も重要なのは、メソポタミアのアッカド王国の碑文だ。王の輝かしい功績として、イラン高原の強大な国家との戦いについて記されている。ある文献には、紛争の結末について詳細に記されていて、「(アッカド王)リムシュはマルハシ王国のアバルガマシュ王を戦いで打ち破った。彼はエラムとマルハシを征服し、30の金山、3600の銀山、男女300人の奴隷を奪った」とある。

アッカドの都市が紀元前2350~前2200年にかけて存在していたことには確実な証拠がある。マルハシ王国があったのはアッカドと同じ時代であり、これはジーロフトの発掘から得られたデータが示す年代とも一致している。一方のアラッタはマルハシとは違い、年代が特定できない。

複雑な文明が発達するとは考えにくいとされてきた辺境の乾燥地帯の砂地から、これほど洗練された文化が生まれようとは、誰も想像していなかった。20年近く前に発掘調査が始まって以来、数多くの発見があった。徹底的な分析が行われれば、ジーロフトを歴史的に正しく位置付けることができるだろう。1869年にシュメール文化の痕跡が発見されて以来、メソポタミアは文明のゆりかごとされてきた。しかし、ジーロフトで驚くべき発見がなされたことで、その解釈の再評価が求められている。

次ページではジーロフト文明の栄華をご覧いただきたい。

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