有森裕子 東京五輪、ボランティア辞退「1%」の重み
2021年2月末に開催されたびわ湖毎日マラソン大会(滋賀・皇子山陸上競技場)で、鈴木健吾選手(富士通)が大迫傑選手(ナイキ)の持つ日本記録を33秒上回る、2時間4分56秒の日本新記録で優勝しました。びわ湖毎日マラソンは今大会で幕を閉じましたが、鈴木選手の素晴らしい走りのおかげで、記録にも記憶にも残る大会となりました。明るいニュースが少ないコロナ禍で、こうしたトップアスリートの活躍を目にすると励みになり、元気になれます。
鈴木選手は残念ながら東京五輪への切符は手にできませんでしたが、その次の目標に向けてぜひがんばってほしいと思います。また、鈴木選手の記録が他の選手たちへの良い刺激となり、練習に取り組むモチベーションにつながればいいなと思います。
森前会長の発言、「SDGs」への貢献を掲げた初の五輪なのに…
さて、先月、東京五輪・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗前会長が、女性を蔑視した発言によって辞任に追い込まれたことは皆さんの記憶にも新しいかと思います。その後任として、五輪担当大臣を務めてきた橋本聖子氏が新会長に就任されました。
森氏の発言内容については多くの方が批判をされていますし、同委員会は既に新たな体制で動き始めているので、ここでは深く言及しません。ただ、東京五輪・パラリンピックは、今までの五輪になかった、男女平等の理念も含む、「SDGs」(持続可能な開発目標)への貢献を掲げています。五輪開催地の組織のトップがその理念を理解されていないような発言をしたことは、社会全体がコロナ禍で大会開催が危ぶまれている中、組織・体制への不信や不安を生んでしまったと感じずにはいられません。
橋本氏の会長就任に関しては、性別に関係なくこれまでの経験や実績を見ても適任だと思いますし、今この役職を担えるのは彼女しかいないと思います。ただ、今回の森氏の辞任をめぐって、毅然とした態度を見せることができなかった組織委員会の対応をニュースなどで見ていると、誰が会長を務めるかも大切ですが、組織全体の意識が変わらなければ、また同じような問題が起こるのではないかという心配がぬぐえません。今回の一件を機に、組織全体が五輪・パラリンピックを開催する本来の意味・意義を考え、意識改革をよりいっそう進めてほしいと思います。
辞退したボランティアの思いに寄り添うコメントがなぜない?
私も含め、国民の不信感をさらにあおる出来事の1つが、大会ボランティアに対する対応でした。森氏の女性蔑視発言とその後の対応を受けて、五輪ボランティアの辞退が相次ぎました。2月24日の報道では、約1000人のボランティアが辞退したと組織委員会が発表しています。もともと予定していた大会ボランティアは約8万人で、辞退されたのはそのうちの1%強に当たる人たちだそうです。組織委員会は「辞退された方には大変申し訳ない」とは伝えながらも、「大会運営には支障はない」という見解を示しました。
私はこの報道に触れ、大きな違和感を覚えました。
騒動直後の2月上旬にボランティアの辞退報道があった時も、「どうしてもおやめになりたいということだったら、また新たなボランティアを募集する、追加するということにならざるを得ない」と話した自民党幹部の発言にも憤りを感じましたが、今回の組織委員会の「運営には支障はない」という見解は、またしても、辞退したボランティアの一人ひとりの心情に寄り添わない、残念なコメントに思えてなりませんでした。
五輪ボランティアの方々は、エントリーから長い期間を費やして、面接やオリエンテーション、研修を受け、大会を成功に導くために少しでも貢献したい、一緒に喜びを分かち合いたい、という思いで協力してくださっています。今回辞退した方たちは、単に森氏の発言に腹を立てて、腹いせに辞めているのではなく、それぞれ、自分自身の五輪への思いとの狭間で葛藤し、悩んだ末の決断だったのではないでしょうか。私は、組織委員会がそのことの重みをきちんと理解しているようには感じられなかったのです。
ボランティアにお礼を伝えるランナーの姿に感動した引退レース
ボランティアの方々は、大会の大切な「顔」です。初めて訪れる土地でタクシーに乗ったとき、その運転手さんの態度や人柄がその街の印象を大きく左右するように、全国各地で開かれるマラソン大会でも、その地域に住む子どもから高齢者まで、幅広い年齢の人たちが、生き生きと楽しそうにボランティアとして支えてくださっていることが、大会の良い雰囲気を作り出し、一体感につながります。
そう心から思えるようになったきっかけは、私の引退レースになった「東京マラソン2007」でした。忘れもしないあの日、東京は冷たい雨が降っていました。立っているだけで凍えそうな極寒の中を、多くのボランティアの人たちが雨にぬれながら一生懸命、水や食べ物を手渡してくださいました。そんな献身的な姿に、心から「ありがとう」と頭を下げてお礼を伝えているランナーの皆さんがたくさんいる、そんな大会だったんです。
ランナーも、ボランティアも、スタッフも、沿道で応援する皆さんも、それぞれの存在が主役であることを認め合い、支え合い、喜びを分かち合える。そんな素晴らしい大会として、この日見た光景は私の脳裏に深く刻まれました。
だからこそ、ボランティアは誰一人として欠けてはダメなんです。辞めたいと思わせるようなことがあってはいけないのです。それがまして、"スポーツを通じた平和の祭典"である五輪・パラリンピックであればなおさらではないでしょうか? "祭典"の主役は選手だけではありません。運営側の、少なくとも情報を発信する代表的な立場の人たちがこうしたことを共有できていれば、「足りなければ代わりを募集すればいい」という発想や、「たった1%だから減っても大丈夫」という考えにはならず、「運営に支障がないこと」をアピールする発信にもならなかったのではないでしょうか。
辞退した人の数が多い、少ないという問題ではなく、大会の主役の一角を担うボランティアの心を傷つけ、意欲をくじいてしまったことに真摯に向き合い、尊重する気持ちがあれば、もっと違う言葉の選び方があったのではないかと思います。こうした対応では、残ってくれたボランティアの方々の心を一つにすることも難しくなってしまうのではないでしょうか。
今回の騒動では、ジェンダー論や、世界から見た日本の姿に大きな関心が寄せられていますが、こうした大会を支えるボランティアの方のモチベ―ションにも、今一度目を向けていただけたらと思います。目指す場を作り出すために本当に大切なエネルギーは、大会関係者以上に、それをサポートしてくれるボランティアなどの人たちにあるのではないでしょうか。大会を真の意味での成功に導くためには、こうした問題に誠意をもって対応し、国民に丁寧に説明していくことが、橋本氏をトップとした組織委員会に課せられた最重要課題ではないかと感じます。
(まとめ 高島三幸=ライター)
[日経Gooday2021年3月9日付記事を再構成]
元マラソンランナー(五輪メダリスト)。1966年岡山県生まれ。バルセロナ五輪(1992年)の女子マラソンで銀メダルを、アトランタ五輪(96年)でも銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得という重圧や故障に打ち勝ち、レース後に残した「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞となった。市民マラソン「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞した。
健康や暮らしに役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。