千と一の教会あったアルメニア 打ち捨てられた都の今

日経ナショナル ジオグラフィック社

2021/3/24
ナショナルジオグラフィック日本版

アニのティグラン・ホーネント(アルメニア人寄進者)の聖グレゴリオ教会は、1215年に現在のトルコとアルメニアの国境であるアクフリアン川沿いに建てられた(FLORIAN NEUKIRCHEN/AGE FOTOSTOCK)

トルコの都市カルスの東に、寂しげに立ち並ぶ中世の教会建築群がある。広大な草原に、八角形の塔、崩れかけた壁、倒れた円柱が散らばっている。そして、トルコとアルメニアとの国境となるアクフリアン川に注ぐ峡谷には、途中で折れた古い橋もある。

これらの遺跡はすべて、中世アルメニアの首都アニの名残だ。アニは国際都市として栄えた。紀元300年代初頭、世界でも最初期にキリスト教を国教として受け入れたのが古代アルメニアだ。5世紀の要塞が残るアニは、10世紀に中世アルメニアの首都として選ばれた。10万もの人が暮らすようになったこの都市は、数々のキリスト教建築に彩られ、「千と一の教会がある都」と呼ばれるようになった。

黒海とカスピ海の中間の交易路沿いという戦略的な立地に魅力を感じた諸勢力によって、アニは何世紀にもわたって侵略を受け続けた。ところが、ある時を境に打ち捨てられ、長い間忘れられたままだった。

16世紀にオスマン帝国に吸収された後、アニは衰退して人々の記憶から消えていったが、19世紀初頭、欧州の旅行者がこの中世都市の遺跡を訪れるようになる。

アニの遺跡はオスマン帝国、ペルシャ、ロシア帝国の国境がぶつかり合う、地政学的な断層線上に位置していた。政治的な緊張が高まるにつれ、アニを訪れることは困難になっていった。そんな中でも、アニを訪れて調査をする人もいた。やがて、それが学者の興味を引くこととなる。

1817年、英スコットランドの外交官で旅行家のロバート・カー・ポーターがこの地を通り、印象を記している。ここにある「不気味な遺跡」は、「残忍な略奪者」が隠れるのにはおあつらえむきだとしながらも、彼がつづった文章からは、ポーターの興奮が伝わってくる。「街に入ったとたん、地面全体が壊れた柱頭、凝った装飾が施されたフリーズなど、かつての荘厳さを忍ばせるものに覆われているのがわかった」

中には、傷が少ない教会も残るが、それさえもポーターは「時と荒廃が、大きな傷痕を残す他の建造物と同じく、教会はぽつんと寂しげに立っている」と書いている。

「聖なるキリスト教の象徴が、さまざまな場所に取り入れられている。血のように赤い大きな石塊が塔の石積みに組み込まれて、巨大な十字架を形成し、破壊せんとするイスラム教徒の手を阻んでいる」。1839年、アニの防御の堅固さとキリスト教図像の存在に感銘を受けた英国軍大尉リチャード・ウィルブラハムは、こう述べている。

このように、アニが学術的な興味の対象となる機会もあったものの、アニの風化は、その後も進んでいった。考古学者たちが正式な調査でアニを訪れたのは、それから数十年後だった。

アルメニア王国

いにしえのアルメニア王国は、現在のアルメニアよりもはるか遠くまで版図を広げていた。ペルシャ人、セレウコス朝、パルティア人、 ローマ人などに従う時代を経て、帝国が興亡を繰り返しても、アルメニア人は消え去ることなく、ここで生き続けたのである。

キリスト教がアルメニア史において中心的役割を果たすようになったのは、まだこの宗教が生まれて間もない頃のことだ。キリスト教はこの国に根付き、ビザンツ帝国、ササン朝、アラブ系イスラム教徒の支配を受けても、キリスト教国アルメニアが変わることはなかった。

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