中島さんは中学1年のときに被災し、約半年間の避難生活を余儀なくされた。新型コロナウイルスの感染が広がっていた2020年春に早稲田大学を卒業し、日本赤十字社に入社した。「災害時に役に立てる存在になりたい」と考えたという。
――きれいな花畑の写真を「故郷の1枚」として選んでいただきました。どうしてこの風景を。
「ここは海沿いの南相馬市原町区萱浜(かいばま)という場所です。19年5月の帰省時に朝4時半に起きて、日の出のときに撮りました。ここは震災時、全部津波で流された土地です。地震と津波と原発事故、3重の被害を受けた場所で、自分にとっても原点のようなところです。この近くに家がある上野敬幸さんは子供と両親を亡くし、天国にメッセージを送りたいという思いで、この菜の花の迷路を作られていて、自分も種まきを手伝ったりしていました」
「今では子どもたちが駆け回っていて、ここで本当に被害があったのかと忘れてしまうぐらいきれいに咲き誇っていて。天国にいる上野さんのお子さんも見てくれているのかな、と思いながら眺めていました。上野さんとは『お互い笑いあえる場所を作りたいね』という話をしました」
「死を覚悟した」中学1年
――原発事故の発生後、中島さんの実家がある南相馬市原町区などは緊急時避難準備区域(第1原発から20~30km圏内)に指定されました。当時はどんな状況でしたか。
「1号機の爆発があったのが3月12日。その日の夜にまず(北の隣接市である)相馬市の避難所に家族で身を寄せました。自宅を出るとき、この家にはもう帰ってこれないだろうな、と思いましたね。子供でも原子炉の事故って、ただごとではないとわかりますから。まさに死を覚悟しました」
――放射線の恐怖を感じながらの避難生活、どんな心境でしたか。
「避難所が高校だったので教室で寝泊まりしていたのですが、仮設トイレが外にあって、体育館の前を通るんです。その体育館には、津波で亡くなった方のご遺体が運ばれてきていました。救急車がサイレンも鳴らしていないし、開いているドアからひつぎが見えるから、すぐわかるわけです。それを見るのが怖くてトイレに行くのを我慢した記憶があります。自分は生かされたけれども、こんなにもたくさん亡くなった方がいるんだと、つらい現実を目の当たりにしました」
「原発の状況も日に日に悪化していき、より遠くへ再避難する人が多かった。朝起きると、近くにいたはずの人がいない。それが恐怖でしかなく……。当時は放射線のことがよくわからず不安ばかりで、一刻も早く離れたいと思っていました。だからなかなか避難先を決められない両親にいらだったりもしました」
――その後も都内の親戚宅や福島県中通りにある西郷(にしごう)村など、転々とされて、多感な時期にはつらかったと思います。何か支えはありましたか。
「中1のときの担任で、恩師である清信元江先生から西郷村の避難所に電話がかかってきたんです。『またみんなで集まろうね。今大変だけど、いつか必ずみんなで会えるから』と言ってくださって。とてもうれしかったですし、その言葉を支えに避難生活を送っていました」