『日本人のへそ』 必死で探す「役の声」(井上芳雄)第88回

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井上芳雄です。3月6日から紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで上演されるこまつ座の公演『日本人のへそ』に出演します。井上ひさしさんの劇作家としての処女作で、ものすごく凝った構造のはちゃめちゃな作品。過剰なまでのエネルギーにあふれ、僕自身も今までやったことがない役柄を何役もこなして、舞台役者の醍醐味を味わっています。

こまつ座 第135回公演『日本人のへそ』3月6~28日 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで上演中。写真は稽古場での井上芳雄。撮影/宮川舞子

僕は、井上先生の遺作『組曲虐殺』に出させていただき、人生が変わったと思っています。その井上先生の最初の戯曲が『日本人のへそ』です。1969年の初演以来、再演を重ねていて、今回は10年ぶりの上演。10年前に初めて観劇したときには、いい意味でですが、これは何なんだ……と衝撃を受けました。井上先生の原点ともいえる作品を、今回のカンパニーの皆さんと一緒に演じられるのはうれしく、稽古場に行くのが楽しい毎日でした。

『日本人のへそ』は構造がとても変わったお芝居です。1幕が約1時間50分で、2幕が約50分。長さがずいぶん違うし、作りも全く異なっています。1幕は「吃音(きつおん)症の治療には台詞(せりふ)を喋(しゃべ)るのが一番」と提唱するうさんくさい大学教授が仕立てた劇という設定で、浅草ストリップの華、ヘレン天津の一代記が描かれます。岩手から上京した女子学生がストリッパーになって、ヤクザの女になったりとのし上がっていきます。東北での暮らしから、集団就職で上京し上野駅に降り立ち、浅草に遊びに行ったり、いろんなシーンの連続で、音楽も踊りも多くて、まさに日本のミュージカル。1幕だけでも十分に1本のお芝居として成立するボリュームです。それが2幕になるとガラリと趣向が変わり、謎解きの推理劇になって、どんでん返しがいくつも起こっていくという全く違うお芝居が展開します。

稽古で初めて通して演じたら、2つの作品を続けてやったみたいで、息つく暇なく最後まで突っ走る感じでした。1幕はいろんなコントの連続にも見えて、2幕は会話劇として面白い。僕は会社員という役名なのですが、会社員として出るのは最初のシーンで、その後はヒロインの父親、クリーニング店の店員、浅草のヤクザ、ストリップ劇場のコメディアンとどんどん役が変わっていきます。すごく凝った構造で、ほかの舞台作品では見たことのないような構成なのが特徴です。

初演された1969年の当時、井上先生はコントの台本を手がけたりしていました。山元護久さんと一緒に台本を書いた『ひょっこりひょうたん島』(64~69年、NHK)が国民的人気番組になり、声優として出演していた熊倉一雄さんが主宰する劇団テアトル・エコーに書き下ろした戯曲が『日本人のへそ』です。その後、本格的に戯曲の創作を始めます。

初めての戯曲である『日本人のへそ』には、井上先生の体験が色濃く反映しています。東北の出身で、吃音症があったし、浅草のストリップ劇場でコント作家もしていました。そういう自分が見たもの、聞いたもの、体験したものを含めて書いているのが分かります。ミュージカル映画が好きで、レコードなどを集めていた話は有名ですが、『巴里のアメリカ人』や『ウエスト・サイド物語』といった名作のエッセンスを取り入れているのも随所に感じられます。いろんな豊かなものが詰め込まれたお芝居です。

演出の栗山民也さんは、長く井上先生の作品を演出されていますが、昔から「『日本人のへそ』が一番好き」と言われています。その選択が意外で、ほかにも名作といわれる作品はたくさんあるのに、なぜ『日本人のへそ』なのだろう、と以前から思っていました。理由を聞いたことはないのですが、きっと何度も演じているうちに分かってくるだろうと思いつつ稽古に臨みました。実はまだ、その答えをつかめていないのですが、今感じている作品の魅力はこんなことです。

まず途方もないエネルギーに満ちている。紀伊國屋サザンシアターは500席弱の劇場で、舞台もそれほど大きくないのですが、役者は歌って踊って、袖に引っ込んだ瞬間に早替えして、走ってまた出ていくのを繰り返します。場面ごとに色も全く違っていて、その濃い空間の感覚はほかでは味わえないものです。しかも描かれている時代が高度成長期の日本で、出稼ぎや集団就職がまだ一般的だった頃。当時の匂いのようなものも独特です。日本人がどれほどエネルギッシュで、心が豊かだったかを思い出させてくれます。

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