
火星マップの歴史をたどっていくと、火星についての理解がどんなふうに変遷してきたかが視覚的にわかる。新たな望遠鏡ができたり、宇宙探査が実施されたりすると、そのたびに火星への理解は飛躍的に進み、同時に火星マップも進化してきた。
現在のように火星探査機が活躍する前は、火星の情報がはるかに少なかった。だが、そんなことはお構いなしに、火星マップは火星の成り立ち、居住可能性、知的生命体の有無など、当時の人々の火星の理解を反映していた。
初期のぼんやりした陰影のスケッチから、運河をめぐる論争を経て、現在の詳細な重力マップに至るまで、歴代の火星マップは私たちの情報源となり、同時に想像力を刺激してきたのだ。
望遠鏡で最初に火星を見た人物は、あのガリレオ・ガリレイである。1610年のことだったが、細部はまったく見えなかった。その後の望遠鏡の改良により火星の表面が少しずつ見えてくると、科学者たちは自分が見たものをスケッチしはじめた。17~18世紀にかけて、ジョバンニ・カッシーニ、ウィリアム・ハーシェル、ロバート・フック、クリスチャン・ホイヘンスなどの有名な科学者が火星の大まかな特徴をスケッチしているが、火星マップと呼べるものを作成したのは、ドイツの天文学者ヨハン・メドラーとヴィルヘルム・ベーアが最初だった。
メドラーとベーアは、1831年から地理座標上に恒久的な地形と思われるものを記入しはじめ、火星の座標系を確立した。彼らが定めた子午線は今でも使用されていて、火星のメリディアニ平原(子午線平原)の名前の由来になっている。メドラーとベーアは複数の火星マップを作成していて、上の1840年の火星マップはその1つだ。どの地図も、彼ら自身が望遠鏡で火星を観察した結果に基づいていて、白い背景に黒いしみのようなものが描かれている。巨大な明るい衝突クレーター「ヘラス平原」や、「ソリス・ラクス」などと呼ばれる黒い点など、彼らの地図に描かれた形の多くは今日でも見てとることができる。

その後の数十年間で、さらに多くの科学者が火星の表面をスケッチし、黒っぽく見える部分が海なのかどうかをめぐって論争を繰り広げた。この時代に品質の高いスケッチを描いたのが、「ワシの眼」の異名を持つアマチュア天文学者W・R・ドーズ牧師だ。英国の天文学者リチャード・プロクターは、ドーズのスケッチに基づいて火星マップを作成、1870年に出版した『Other Worlds than Ours(地球以外の天体)』という著書にも掲載した。

プロクターは、火星の明るい点と暗い点は陸と海で、北極と南極には氷でできた極冠があると解釈した。こうした特徴に名前をつけたのは彼が最初で、火星の観察に貢献した有名な天文学者たちにちなんで「カッシーニの土地」「ドーズ海」「J・ハーシェル海峡」「ベーア海」などと名づけた。
火星の表面に陸や海らしきものが見えてくると、火星の生命をめぐる議論がさかんになった。プロクターも著書の中で、「宇宙のはるかかなたで働いているプロセスは、地球上のプロセスと同じように有機体の役に立っているのでなければ、自然のエネルギーの完全なる無駄遣いである」と主張している。
プロクターは次々と火星マップを作成し、ほかの火星地図製作者たちも彼のスタイルにならって火星マップを作成した。上に示したフランスの天文学者カミーユ・フラマリオンの火星マップは、プロクターの地図に酷似している。彼もまた火星には生命がいると信じていた。
