客が口ずさむ九ちゃんの歌 タクシー運転手の幸せな夜鉛筆画家 安住孝史氏

六郷水門(画面左奥)の舟だまりは「雑色運河」と呼ばれた水路下流の雰囲気を伝える(画・安住孝史氏)
夜のタクシー運転手はさまざまな大人たちに出会います。鉛筆画家の安住孝史(やすずみ・たかし)さん(83)も、そんな運転手のひとりでした。バックミラー越しのちょっとした仕草(しぐさ)や言葉をめぐる体験を、独自の画法で描いた風景とともに書き起こしてもらいます。(前回の記事は「日本橋スタートで成績トップ タクシーはカンが大事」

毎年2月は受験シーズン本番です。合格した喜びに家族とひたる子もいれば、志望校に落ちて涙を流している子もいます。希望がかなわず挫折するのは切ないですが、スタートで小さくつまずくのは、後になって役に立つこともあるものです。

スタートで経験した2つのつまずき

僕は、それぞれ間を置きながら3つのタクシー会社で運転手をしてきましたが、最初の会社で小さな事故と交通違反を経験しました。

入社して3カ月、やっとタクシー運転に慣れたと思ったときのこと。「東京工業大学の近くです」と世田谷区奥沢を行き先にして乗車されたお客様がいました。よく知らない町でしたから、大学より先はお客様の道案内で走りました。その帰りです。狭い一方通行を走っている途中の十字路で、出合い頭に車とぶつかりました。相手が走る道も一方通行です。夜遅く雨も降っていたので、お互いスピードを出さずに走っていたのは不幸中の幸いでした。

ぶつかったのは右の後ろのトランクの横、相手は右の前輪を覆うフェンダー(泥よけ)です。見ればなんと、同じ会社のタクシー。下町浅草のタクシーが偶然、世田谷の細い道でぶつかったのです。レッカー車を呼ぶほどの事故ではなく自走できましたから、連なって会社まで帰りました。帰り道でつくづく思いました。一瞬の差で運転席のドアにぶつかっていたら大けがをしていたかもしれない。相手が同じ会社のタクシーでなかったら、どんな面倒が起きていただろうか……。

事故が起きたのはもちろんよくないことですが、それでも不思議に幸運な事故だったのです。だれかに「二度と事故を起こさぬよう気をつけるんだよ」と言われた気がして、強く印象に残りました。

交通違反をしたのは入社して1年くらい過ぎた頃です。午前中でしたが、浅草駒形あたりで30歳ぐらいの女性が「東京駅八重洲口」と乗ってこられました。走り出すと「運転手さん急いでください。列車の時間が……」と、新幹線の出発時間が迫っていることを伝えられました。僕もこれは間に合わせなければとアクセルを踏み込みます。そして東京駅にたどり着く前に、路上で取り締まりにあたっていた警官から、おいでおいでと合図されました。スピード違反でした。

停車した僕が車を降りて別のタクシーを止めると、お客様はそそくさと無言で乗り換えていきました。車を見送った後、僕は「お客様が新幹線に乗るので急ぐようにと言われたんです」と言い訳をしました。すると警官は「お客さんが死ねと言ったら運転手さんは死ぬのか」と聞くのです。僕は少し極端だと思って「頼みごとの内容によります」と言い返しました。

そのとき、警官は強い口調で言いました。「簡単に飛ばす。その結果、死傷につながる」。実にもっともでした。

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夜更けの六郷水門で