さらに興味深く、やはり痛々しい症例の紹介。
「20代の女性で、手をついて受傷、手首の靭帯損傷と言われて、手術を3回やっています。手のアロディニアだけじゃなくて、足も動かなくなってきて、右足底のアロディニアと、膝関節の拘縮が起きています。左右の足のレントゲン写真を比べると、右足側はもやっとして、骨がもう映らなくなってきています。これは、骨がもう薄くなってるんですね」
画像がぱっと目に入ってくるだけで、こっちまで痛くなってくるような、同時に胸が痛くなる事例だった。

「実は、この女性は、両親が小学生のときに離婚して、親類に育てられたんだそうです。外来には現在一緒に暮らしている父だという男性と来院するんですけど、その男性が一緒に診察室に入ってこないんですよね。娘がこんな足になってたら心配するはずですから、診察室に一緒に入ってこない親がおるわけがないと思って、おかしいなと思って聞いたところ、一緒に暮らしているけどお父さんではないと言ってました。背景には、さっきの女の子もそうですけど、痛みがあることによって、気遣ってもらえる、大切にしてもらえることが、痛みを固定するのに関係していたんです。『疾病利得(しっぺいりとく)』という言葉もあります」
疾病利得と書くと、何か身も蓋もない印象を受ける。文字通りに解釈すると、病気であることによって利益を得る、という意味になるが、そういう理解でよいのだろうか。
「まず、『侵害刺激』があると『痛み行動』が出ますよね。そして、『痛み行動』に報酬が出ると、『痛み行動』が強化されるということですね。痛いと訴える、痛そうな顔をする、じっとしている。そうすると、優しくしてもらえたり、お金が出たりすると。そうやって『痛み行動』が強化されて、抜け出せなくなるサイクルがあるんです」
こういった強化のメカニズム自体は、いわゆる「オペラント条件づけ」によるトレーニングそのものだ。人は、痛みを訴えたり、痛そうにするような、「痛み行動」をどんどん強化すべく自らをトレーニングしてしまう場合がある。そして、それは単に「痛いふり」というわけでもなく、今の事例のようなアロディニアと診断されるような激しく痛いものになって、レントゲンで骨がまるで溶けたように見えるような状態にまで至る。
そのプロセスを頭の中で想像してみると、本当にやるせなく、切なく、やはり痛々しい。
=文 川端裕人、写真 内海裕之
(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2020年1月に公開された記事を転載)
1966年、香川県生まれ。愛知医科大学医学部教授、同大学学際的痛みセンター長および運動療育センター長を兼任。医学博士。1991年、高知医科大学(現高知大学医学部)を卒業後、神経障害性疼痛モデルを学ぶため1995年に渡米。テキサス大学医学部 客員研究員、ノースウエスタン大学 客員研究員、同年高知大学整形外科講師を経て、2007年、愛知医科大学教授に就任。慢性の痛みに対する集学的な治療・研究に取り組み、厚生労働省の研究班が2018年に作成した『慢性疼痛治療ガイドライン』では研究代表者を務めた。
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、肺炎を起こす謎の感染症に立ち向かうフィールド疫学者の活躍を描いた『エピデミック』(BOOK☆WALKER)、夏休みに少年たちが川を舞台に冒険を繰り広げる『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその“サイドB”としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』『風に乗って、跳べ 太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。近著は、「マイクロプラスチック汚染」「雲の科学」「サメの生態」などの研究室訪問を加筆修正した『科学の最前線を切りひらく!』(ちくまプリマー新書)
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