五輪の切符を逃した大きな挫折

――プロに転向したのは、主力として挑んだ世界最終予選兼アジア大陸予選で敗退し、16年のリオデジャネイロ五輪への切符を逃したことが大きかったのでしょうか?

そうですね。リオデジャネイロ五輪という大舞台に立って活躍することは、その時の最大の目標だったので、達成できなかったことはものすごくショックでした。重圧とは思っていなかったのですが、最終予選では得意のサーブでミスをしてしまい、不安定なプレーになってしまって。自分が追い求めていた目標と、実際に残った結果とのギャップが大きかったし、周囲からの期待を背負ってのチャレンジだったので、応えられなかった自分に対してのふがいなさや悔しさもありました。

満足から程遠い結果でしたが、すでに2020年に母国で五輪が開催されることが決まっていたので、「このままじゃダメだ」という危機感が募りました。心が折れている場合でなく現実を受け止めて、プレーの質を上げるべきだと。

実は、プロへの転身や海外でプレーしたいという思いは、リオ五輪の切符を逃す前から考えていました。日本代表に選ばれて試合を重ねると、自分に足りないところがたくさん見えてきて、「日本代表として戦い続けるためにはどうしたらいいか」と自問自答するようになりました。

同じサントリーのチームですでにプロ選手として活躍していた酒井大祐先輩の影響もあって、世界で通用する選手になるには、身一つで海外に飛んで外国人選手の中に入ってプレーする必要があるとも考え始めました。プロになって海外でプレーすることを視野に入れていたんです。

もう一つ、ワールドカップが開催された15年は、新人賞を獲得するなど、例年に比べて結果を出すことができていたのですが、周囲の評価と自分の感覚にギャップを感じていました。プロになれば厳しい世界がゆえ、もっと個人の評価が重視されるのではという考えも湧いてきて。リオ五輪に出場できなかったからこそ、以前から抱いていた思いが加速して、思い切った選択ができたのかなとも思います。

伸び悩みを防いだのは「自主性」

――学生の頃から受け身ではなく、能動的に考えて動ける選手だったのでしょうか?

バレー人生を振り返ると、監督にやらされていたという経験があまりありません。特に高校は春高バレー上位常連校ではなく、自主性を重んじる環境だったので、そこで主体的に動くクセが芽生えたように思います。もちろん気持ちが緩んでいたりすると、監督にちゃんと喝を入れてもらいますが、練習試合後に、「最後のあのボールは誰が取るべきボールだったか」などと振り返ってチームメートと改善点を話し合ったり、練習後に居残って課題に取り組んだりしました。

大学では、さらに自分たちで考えて練習することが許される環境だったので、「こういう練習をすればもっとプレーの幅が広がるんじゃないか」などと、常に考えていました。大学4年の時にキャプテンになると、同期とアイデアを出し合いながら練習メニューを作っていました。頭の回転が早くて知識力が高い選手が集まっていたので、それぞれの視点を持ち寄って議論しながら、改善点などを探ることが楽しかったですね。コートに立っていない選手からの意見もすごく参考になり、周りの意見に耳を傾けるようにもなりました。やらされる練習ではなく、早くから自分が何をしたいのか、すべきなのかを常に考えていたことが伸び悩みを防ぎ、成長の原動力になっていたのかもしれません。

(ライター 高島三幸)

柳田将洋選手
1992年東京都生まれ。小学1年生からバレーボールを始め、東洋高校では主将として第41回全国高等学校バレーボール選抜優勝大会優勝。慶応義塾大学在学中に全日本メンバーに招集される。サントリーサンバ―ズに入団し、2015/16 Vプレミアリーグ最優秀新人賞を受賞。17年にプロに転向し、ドイツ・ティービー・インガーソル・ビュール、ポーランド・クプルム・ルビン、ドイツ・ユナイテッドバレーズでプレー。20年サントリーサンバーズと契約。

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