和魂洋才の気概見せた 渋沢栄一のインバネスコート服飾評論家 出石尚三

インドの賓客を迎える渋沢栄一(右)。羽織はかま姿で、手には山高帽を持っている(1929年)=日本電報通信社
インドの賓客を迎える渋沢栄一(右)。羽織はかま姿で、手には山高帽を持っている(1929年)=日本電報通信社
19世紀の英国からフランスへと広がったダンディズムとは、表面的なおしゃれとは異なる、洗練された身だしなみや教養、生活様式へのこだわりを表します。服飾評論家、出石尚三氏が、著名人の奥深いダンディズムについて考察します。



幕末に渡仏、洋装になじむ

まもなく始まるNHK大河ドラマの主役であり、2024年度には新1万円札の顔となる人物が、実業家の渋沢栄一です。鎖国の江戸から明治の文明開化、大正デモクラシーと3つの時代を駆け抜け、今日の日本経済の礎を作った傑物であります。農民の生まれながら武士、やがて子爵にまでなったこの渋沢は、実は日本の装いの歴史のなかでも画期的な存在といえるのです。それは、日本人のなかでもいち早く洋服を着用した人の1人であるからです。

鎖国の時代において、洋服を着ることはまさにタブーでした。端的な例をひとつだけ挙げますと、幕末の朱子学者、佐久間象山は進歩的な開国派の人間で、たびたび洋装をし、西洋の鞍(くら)を置いた馬に乗っていることが非難の的となりました。ついには尊王攘夷(じょうい)派の志士によって京都で暗殺されてしまいます。事ほどさように、その時代、京都の河原町を洋服で歩いたなら、一瞬のうちに斬られても不思議ではありませんでした。

1万円札の「顔」になる渋沢栄一

一方、渋沢はすでにこの時代、異国の地で洋服を着ていました。1867年(慶応3年)に時の将軍、徳川慶喜の弟・昭武のお供の1人として、フランスに渡っていたからです。パリ万博に招待された幕府は慶喜の名代として昭武を、留学も兼ねて渡仏させたのでした。

渋沢はこの幕末の旅行について、貴重な記録をのこしています。たとえば『巴里御在館日記』の中にこうあります。

「御稽古中は洋服御着之積御定相成今日御着初有之爾後洋服御歩行ニ……………………」

これは昭武公の馬術についての記述です。昭武公が西洋馬術を習うことになって、その時には洋服を着ることに決まりました、との報告なんですね。

渋沢の『巴里御在館日記』を読んでいますと、「御洋服にて」の記述がしばしば見られます。つまり現地での昭武公の普段着は洋服だったのであります。ただし、公式の正装は日本の服、和装です。これは渋沢ら従者の服装も同じでした。公式には和服、普段は洋服、という身なりでした。

そうなることを見越していたのかどうか、渋沢は1867年1月11日朝7時、横浜港で仏船籍「アルフェー号」に乗り込む時、すでに洋服を用意していました。横浜の古着店から燕尾(えんび)服などを仕入れたのです。当時、日本国内での洋装がご法度であったのにもかかわらずです。

「和装に合う」コート、明治時代に流行

渡仏後、渋沢は、昭武公が洋装であるのに自分が和装でいることには抵抗があったようです。それで自ら洋服も、和服も着ることにしました。若き日の断髪・洋装した渋沢の写真が今に伝わっています。シルクハットに蝶ネクタイ、フロックコート。さて、その姿を、果たして「さまになっている」と言えるかどうか。

洋服も和服もあくまで形式に過ぎません。服と人とが一心同体になるには、着る人の心がそのスタイル自体になじむ必要があります。写真を撮影した当時の渋沢は、まだ「洋服の心」にはなりきっていなかったのかもしれません。

数ある洋服のアイテムのなかで、渋沢が晩年に至るまで愛用していたのが「インバネスコート」です。いわゆる男性の外套(がいとう)、丈の長いコートにケープを合わせたデザインのものです。シャーロック・ホームズが愛用していたのも、このインバネスでした。

「インバネス」はスコットランドの地名で、ネス湖の河口にある港町のことです。ここでは古くから、厚く、丈夫な紡毛地が織られていました。この紡毛地で仕立てた旅行用の外套がインバネスなのです。登場したのは19世紀半ば頃で、共地のケープが添えられていたためインバネス・ケープと呼ばれることもあったようです。

インバネスは明治になって日本に伝えられ、大いに重宝しました。袖らしき袖がなく、ケープが袖代わりになるので、着物の袂(たもと)を気にすることなく羽織れたからであります。

猫もしゃくしも…と言いたいほど、インバネスは大流行しました。その黒いインバネスを着た様子が鳶(とんび)を思わせたため、「トンビ」の別名も生まれたほどです。

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渋沢好みのインバネス、形は伝統的でシンプル
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