西欧の多くの国では市民革命などを経て、近代社会を実現し、民主化に移行してきましたが、日本の場合は明治期に政府が西欧のルールや慣習を模倣して、近代国家の基盤をつくりました。さらに言えば、真の意味での民主主義は、自分たちで勝ち取ったというよりも、第二次世界大戦に敗れた結果として、他国に与えてもらったものにすぎないのかもしれません。

「民主主義=多数決で決めると単純に考えていない」と語る工藤校長

「民主主義=多数決で決定すること」などと安易に考えている人がたくさんいるのが、残念ながら日本社会の現実です。このことの責任の中心は学校教育にありますが、「対話して合意する」プロセスを真の意味で経験をしたことがほとんどない私たちが、民主主義を学ばせていくのですから、難しいのは当たり前かもしれません。事実、学校の教師でさえ、「民主主義って何?」と問いかけても、誰もがわかるように説明できるものはほとんどいません。私自身、若い頃の自分を考えれば同じようなものす。

民主主義を私なりに説明してみようと思います。一言で言えば、可能な限り個人の自由を尊重する中で、全ての人々の幸福を実現するという、簡単には実現できないこの答えを全員の対話を通して探し出し、合意するプロセスということになるのでしょうが、やはりこれではわかりづらいですよね(笑)。

一人一人の考え方、価値観はもちろんのこと、それぞれが持っている社会的な背景や立場はみんな違います。当然、あらゆる場面で利害の対立が生まれます。「夫婦がどちらの姓を名乗るか」ということで言えば、例えば「夫婦別姓」を統一ルールとして定めてしまった場合、同姓を名乗りたいという人の利益を損ねることになるわけです。多数決で数の多い方に一方的に物事を決めるということは、当然ですが、こうしたことが頻繁に起こることになります。

でも、どちらを名乗るかを個人それぞれが決めることができるようにすれば、どうでしょうか。少なくとも、自分が選びたい姓を名乗るという個々の利益については損ねることはありません。もちろん、「自分の価値観をそうは考えていない人々に押し付けたいという自由」は損ねることにはなります。つまり、「自分の自由を尊重してほしい」と主張することは、他者の自由を尊重する方向で妥協点を探し出していく作業とセットでなければいけないということです。

日本の学校、倫理観で物事を解決 腹落ちする?

日本がより民主的な国へと成長していくためには、一人一人がこうした対話の経験を積み重ねていくことこそが大切ですが、日本中の大半の学校では生徒が主体的に話し合って、合意してルールを決めたりする学校運営の仕組みがほとんどありません。

例えば、AくんとBくんがケンカになり、殴り合いになる際、多くの教師は「暴力は倫理上許されない」と一方的に制止し、道徳観で物事を解決しようとするでしょう。なぜ暴力はダメなのか、納得行くまでみんなで話し合い、解決策を考えようという教師はどれだけいるでしょうか。「殴れば、大けがをし、命の問題につながる。では、どんな解決法があるのか」という議論があってもいいでしょう。

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教師はティーチャーではなく、コーチャーに