日経ナショナル ジオグラフィック社

地元の人々が神の怒りを招くことを恐れたため、この合意には、預言者ダニエルの墓の発掘は行わないという約束が含まれていた。しかし、ジェーンとマルセルは宮殿に目をつけており、地元の人を300人ほど雇い発掘を行った。ジェーンは作業を監視し、出土した遺物を記録した。そのほとんどは、ペルシャ帝国が最盛期を迎えていたダレイオス1世の時代のものだった。当時のペルシャ帝国は、西はナイル川とエーゲ海にまで、東は現代のパキスタンにまで版図を広げていた。

スーサでの最初の大発見は、宮殿の装飾に使われた彩釉レンガのフリーズ(帯状の装飾)で、ライオンがほえる姿が描かれていた。ジェーンはそのエリアの発掘を管理し、すぐにアパダーナの屋根を支えていた高さ20メートルの柱の破片が見つかった。そばには、冠をかぶった雄牛の頭の残骸があった。その直後、有名な射手のフリーズを発見した。

このフリーズには、弓と矢を持つ戦士が、青や緑にきらめくレンガに描かれており、ジェーンは夢中になった。メッシュが伝記で述べているように、ジェーンは射手を自分のフィス(フランス語で「息子」)のように考えていた。苦労して破片をもう一度組み上げ、「偉大な王たちの輝かしい過去を自らの手で」よみがえらせたとジェーンは書いた。

「私には、そのエナメル質の破片がどこのものなのかを見つけ出す特別な方法があります」と彼女は書いている。寝る前に破片を自分の前に置いておくと、朝目覚めた時、魔法のように、その破片があるべき場所がわかったのだという。発掘が完了した時には、遺物は45トンにもなり、フランスに持ち帰る船まで運ぶのに、約30頭のラバと40頭以上のラクダが必要だった。

ゾロアスター教国だったササン朝ペルシャの2つの火の祭壇の前に立つジェーン・デュラフォイ。1880年代にペルシャ王家の墓地遺跡ナクシェ・ロスタムで撮影された(RUE DES ARCHIVES/ALBUM)
スーサ発掘の様子を伝える新聞。アシェット、1888年(AKG/ALBUM)
発見当初、ライオンのフリーズと射手のフリーズは、レンガの山にすぎなかった。破片を整理してラベルを付け、なんとかレンガを組み立て直したジェーン・デュラフォイは、自分のことを2つのフリーズの「考古学的な母」だと考えていた。どちらもパリのルーヴル美術館の目玉となっている(ROGER VIOLLET/AURIMAGES)

晩年の2人

故郷に戻ると、ジェーンとマルセルはパリ社会で祝福され、有名人として扱われた。1886年、フランス政府はジェーンにフランスで最高の栄誉の1つ、レジオン・ドヌール勲章を授与した。ジェーンは普仏戦争の後とは異なり、再びドレスを着ることはなく、男装を続け、短髪のままでいることにした。彼女はフランス政府に嘆願し、ズボンをはく許可を公式に与えられた。

マルセルはペルシャ芸術に関する大著で名声を勝ち取り、ジェーンは旅行記と講演で有名人になった。

2人は残りの年月の多くを、スペインや北アフリカを旅行して共に過ごした。1912年、ジェーンは、モロッコのハサンにある12世紀のモスクの遺跡を発見した。1914年に第1次世界大戦が勃発した際、ジェーンは女性が軍で補助的な役割を果たすことで、より多くの男性が戦えるようにする運動を行った。

70歳になっていたマルセルは、入隊を余儀なくされると感じ、ジェーンと一緒にモロッコに行った。しかし、彼女は病気になり、フランスに戻った。互いに献身的だった夫妻は、個人的な危機でもあり国家の危機でもあったこの時、離れ離れになった。ジェーンは1916年5月に64歳で亡くなり、マルセルは彼女の臨終に立ち会えなかった。彼はその後4年生き、1920年に死亡した。

(文 ARNAUD DEROCHE、RAUL SANCHEZ、訳 牧野建志、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 2020年12月22日付の記事を再構成]

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