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ペルシャ遺跡に魅せられて 男装の女性考古学者の生涯

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ナショナルジオグラフィック日本版

19世紀末のフランスの考古学者であり、探検家、作家でもあったジェーン・デュラフォイは、その生涯において政府から破格の栄誉と特権を与えられた。フランスで民間人に贈られる最高の賞であるレジオン・ドヌール勲章と、公共の場で男性の衣服を着用する特別な法的許可だ。

1851年フランス南部の都市トゥールーズに生まれたジェーン・マグレは、伝統的な家庭で育ち、その社会的・宗教的価値観を受け継いだ。彼女は、離婚に反対する敬虔(けいけん)なカトリック教徒であり、母国のために戦おうとして規則を破った愛国者でもあった。

男装こそしていたものの、彼女のスタンスが保守的だったことが、「19世紀のズボンをはいていた女性に貼られがちだった解離性障害や性的倒錯者というレッテルを貼られることなく、誹謗(ひぼう)中傷されずにすんだ理由の一つである可能性が高い」と話すのは、デュラフォイの伝記「Before Trans: Three Gender Stories From 19th-Century France(トランスジェンダー以前:19世紀フランスの性に関する3つのストーリー)」の著者レイチェル・メッシュ氏だ。

彼女の格好が受け入れられたのには他にも理由がある。46年近く連れ添った夫が著名な土木技師マルセル=オーギュスト・デュラフォイだったことや、夫妻がイラン西部にある古代の都スーサで考古学的な大発見を成したことだ。彼らが発見した遺物はルーヴル美術館に展示され、マスコミはデュラフォイを「勇敢な男装の探検家」と呼んだ。

兵士ジェーン

ジェーンは、パリ郊外にある修道院付属の学校で歴史、古語、現代語、芸術、絵画を網羅的に学んだ。卒業直後の1869年、故郷のトゥールーズでマルセルと出会った。そしてマルセルがインフラの修理を監督するためにアルジェリアから戻った後の1870年5月、2人は結婚した。

マルセルは、ジェーンにとって理想的な相手だった。建築と旅行に情熱を持っており、あるがままの自分を受け入れてくれた。2カ月後、普仏戦争が勃発し、マルセルは工兵隊長として入隊した。ジェーンは、彼について行こうと思った。ただし、兵士に食料や水を配給する女性たち「カンティニエール」としてではなく、兵士として戦いたいと考えていた。軍紀の抜け穴を利用し、なんとか狙撃兵になることができたジェーンは、髪を切り、狙撃兵の制服を着て戦った。

戦後、ジェーンは1871年5月にトゥールーズに戻り、再びスカートをはき、短い髪を伸ばし始めた。マルセルは、再び土木技師として働き始めた。数年後、有名なフランスの建築家ビオレ=ル=デュクが、マルセルをトゥールーズの史跡の責任者に任命した。デュラフォイ夫妻は共にイスラムの芸術や文化に興味を持っていて、1873年~1878年の間に数回、エジプトとモロッコの建築を見に行った。

ビオレ=ル=デュクは、マルセルにヨーロッパのゴシック建築と中東やイスラムの建築との関連性を調べるよう勧めた。1879年、マルセルは、役職から離れることが許され、ペルシャに旅行することにした。ジェーンは、ペルシャ史とペルシャ語の勉強に没頭し、カメラを買って写真の講義を受け、旅に備えた。

ペルシャに魅せられて

1881年2月、ジェーンとマルセルはスーサを目指し、6000キロに及ぶ最初の壮大なペルシャへの旅に出た。当時30歳だったジェーンは、便宜上、もう一度男の格好をした。そうすれば、現地の女性の伝統に縛られることなくペルシャを旅することができたからだ。彼女はベールを着用せず、付き添いなしで馬に乗った。2人は病気、昆虫、泥棒、劣悪な道と戦いながら、1882年1月にスーサにたどり着いた。しかし、疲れ果て、資金も不足し、豪雨に耐えられず、やむなく帰国した。

この旅行中、ジェーンは詳細な日記をつけ、建築物やモニュメントの写真を撮った。また、普通の人々を撮影した。彼女は、男装の女性というユニークな立場のおかげで、ハーレム内を自由に動いてハーレムの住人の写真を撮ることができたと主張している。だが、これは信じがたい話だと、学者は言う。実際、そのような写真は見つかっていない。

写真とスケッチで彩られた彼女の日記は、フランスの旅行雑誌「Le Tour du Monde」に掲載された。この日記は大人気を博し、彼女は講演に引っ張りだこになった。旅行記で名を上げたジェーンは、今度は歴史小説を書き、またも成功を収めた。その1つである『パリュサティス(1890年)』を、フランスの作曲家カミーユ・サン=サーンスが後にオペラにした。古代ペルシャの女王の話で、オペラの台本もジェーンが書いた。さらに、彼女が撮った写真は、マルセルが1884年から1889年にかけて出版した『Ancient Art of Persia(ペルシャの古代芸術)』(全5巻)にも使われた。

再びスーサヘ

ジェーンとマルセルの研究は、フランス国立美術館連合の会長ルイ・ド・ロンショーの支持を勝ち取った。1884年、ルーヴル美術館とフランス政府の支援を受け、2人は再びスーサを訪れた。

それより30年以上前の1851年、英国の考古学者ウィリアム・ケネット・ロフタスは、スーサが聖書に書かれたシュシャンだと初めて特定した。これにより、スーサは世界最古の都市の1つと呼ばれるようになった。彼の調査によると、紀元前4000年代後半から13世紀まで継続的に人が住んでいた。

ロフタスは、この遺跡の図面を作った。そこには、聖書に出てくる預言者ダニエルの墓もあった。さらに、1854年から1855年にかけて限定的な発掘を行い、ペルシャの王ダレイオス1世(在位紀元前522~紀元前486年)が建てた宮殿のアパダーナ(謁見の間)を見つけた。スーサは、ダレイオス1世が帝都に定め、後にアルタクセルクセス2世(在位紀元前404年~紀元前359年)によって再興された。

この発掘の30年後、ジェーンとマルセルは、ロフタスが見逃したものを発見した。発掘は1885年2月に始まり、1886年に終わった。ペルシャのシャー(王)であるナーセロッディーン(彼は最初、ジェーンが女性だとは信じなかった)からは、発掘で見つけたものの一部、特に金銀があればそれを渡すことと引き換えに、発掘の承認を得た。

地元の人々が神の怒りを招くことを恐れたため、この合意には、預言者ダニエルの墓の発掘は行わないという約束が含まれていた。しかし、ジェーンとマルセルは宮殿に目をつけており、地元の人を300人ほど雇い発掘を行った。ジェーンは作業を監視し、出土した遺物を記録した。そのほとんどは、ペルシャ帝国が最盛期を迎えていたダレイオス1世の時代のものだった。当時のペルシャ帝国は、西はナイル川とエーゲ海にまで、東は現代のパキスタンにまで版図を広げていた。

スーサでの最初の大発見は、宮殿の装飾に使われた彩釉レンガのフリーズ(帯状の装飾)で、ライオンがほえる姿が描かれていた。ジェーンはそのエリアの発掘を管理し、すぐにアパダーナの屋根を支えていた高さ20メートルの柱の破片が見つかった。そばには、冠をかぶった雄牛の頭の残骸があった。その直後、有名な射手のフリーズを発見した。

このフリーズには、弓と矢を持つ戦士が、青や緑にきらめくレンガに描かれており、ジェーンは夢中になった。メッシュが伝記で述べているように、ジェーンは射手を自分のフィス(フランス語で「息子」)のように考えていた。苦労して破片をもう一度組み上げ、「偉大な王たちの輝かしい過去を自らの手で」よみがえらせたとジェーンは書いた。

「私には、そのエナメル質の破片がどこのものなのかを見つけ出す特別な方法があります」と彼女は書いている。寝る前に破片を自分の前に置いておくと、朝目覚めた時、魔法のように、その破片があるべき場所がわかったのだという。発掘が完了した時には、遺物は45トンにもなり、フランスに持ち帰る船まで運ぶのに、約30頭のラバと40頭以上のラクダが必要だった。

晩年の2人

故郷に戻ると、ジェーンとマルセルはパリ社会で祝福され、有名人として扱われた。1886年、フランス政府はジェーンにフランスで最高の栄誉の1つ、レジオン・ドヌール勲章を授与した。ジェーンは普仏戦争の後とは異なり、再びドレスを着ることはなく、男装を続け、短髪のままでいることにした。彼女はフランス政府に嘆願し、ズボンをはく許可を公式に与えられた。

マルセルはペルシャ芸術に関する大著で名声を勝ち取り、ジェーンは旅行記と講演で有名人になった。

2人は残りの年月の多くを、スペインや北アフリカを旅行して共に過ごした。1912年、ジェーンは、モロッコのハサンにある12世紀のモスクの遺跡を発見した。1914年に第1次世界大戦が勃発した際、ジェーンは女性が軍で補助的な役割を果たすことで、より多くの男性が戦えるようにする運動を行った。

70歳になっていたマルセルは、入隊を余儀なくされると感じ、ジェーンと一緒にモロッコに行った。しかし、彼女は病気になり、フランスに戻った。互いに献身的だった夫妻は、個人的な危機でもあり国家の危機でもあったこの時、離れ離れになった。ジェーンは1916年5月に64歳で亡くなり、マルセルは彼女の臨終に立ち会えなかった。彼はその後4年生き、1920年に死亡した。

(文 ARNAUD DEROCHE、RAUL SANCHEZ、訳 牧野建志、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 2020年12月22日付の記事を再構成]

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