ペルシャ遺跡に魅せられて 男装の女性考古学者の生涯

日経ナショナル ジオグラフィック社

ナショナルジオグラフィック日本版

100年前の条例に逆らい、ズボンをはいたジェーン・デュラフォイ。1800年11月以降、パリで女性がズボンを着用することは違法だった。この規則は「自由、平等、博愛」や、男性と同じ仕事をする権利、男性の服を着る権利などを女性たちが求めたことに対して、それを阻止するための方策だったと、歴史家は考えている(ENSBA/RMN-GRAND PALAIS)

19世紀末のフランスの考古学者であり、探検家、作家でもあったジェーン・デュラフォイは、その生涯において政府から破格の栄誉と特権を与えられた。フランスで民間人に贈られる最高の賞であるレジオン・ドヌール勲章と、公共の場で男性の衣服を着用する特別な法的許可だ。

1851年フランス南部の都市トゥールーズに生まれたジェーン・マグレは、伝統的な家庭で育ち、その社会的・宗教的価値観を受け継いだ。彼女は、離婚に反対する敬虔(けいけん)なカトリック教徒であり、母国のために戦おうとして規則を破った愛国者でもあった。

男装こそしていたものの、彼女のスタンスが保守的だったことが、「19世紀のズボンをはいていた女性に貼られがちだった解離性障害や性的倒錯者というレッテルを貼られることなく、誹謗(ひぼう)中傷されずにすんだ理由の一つである可能性が高い」と話すのは、デュラフォイの伝記「Before Trans: Three Gender Stories From 19th-Century France(トランスジェンダー以前:19世紀フランスの性に関する3つのストーリー)」の著者レイチェル・メッシュ氏だ。

彼女の格好が受け入れられたのには他にも理由がある。46年近く連れ添った夫が著名な土木技師マルセル=オーギュスト・デュラフォイだったことや、夫妻がイラン西部にある古代の都スーサで考古学的な大発見を成したことだ。彼らが発見した遺物はルーヴル美術館に展示され、マスコミはデュラフォイを「勇敢な男装の探検家」と呼んだ。

土木技師であり建築家でもあったマルセル・デュラフォイ。1900年ごろに撮影(AURIMAGES)

兵士ジェーン

ジェーンは、パリ郊外にある修道院付属の学校で歴史、古語、現代語、芸術、絵画を網羅的に学んだ。卒業直後の1869年、故郷のトゥールーズでマルセルと出会った。そしてマルセルがインフラの修理を監督するためにアルジェリアから戻った後の1870年5月、2人は結婚した。

マルセルは、ジェーンにとって理想的な相手だった。建築と旅行に情熱を持っており、あるがままの自分を受け入れてくれた。2カ月後、普仏戦争が勃発し、マルセルは工兵隊長として入隊した。ジェーンは、彼について行こうと思った。ただし、兵士に食料や水を配給する女性たち「カンティニエール」としてではなく、兵士として戦いたいと考えていた。軍紀の抜け穴を利用し、なんとか狙撃兵になることができたジェーンは、髪を切り、狙撃兵の制服を着て戦った。

戦後、ジェーンは1871年5月にトゥールーズに戻り、再びスカートをはき、短い髪を伸ばし始めた。マルセルは、再び土木技師として働き始めた。数年後、有名なフランスの建築家ビオレ=ル=デュクが、マルセルをトゥールーズの史跡の責任者に任命した。デュラフォイ夫妻は共にイスラムの芸術や文化に興味を持っていて、1873年~1878年の間に数回、エジプトとモロッコの建築を見に行った。

ビオレ=ル=デュクは、マルセルにヨーロッパのゴシック建築と中東やイスラムの建築との関連性を調べるよう勧めた。1879年、マルセルは、役職から離れることが許され、ペルシャに旅行することにした。ジェーンは、ペルシャ史とペルシャ語の勉強に没頭し、カメラを買って写真の講義を受け、旅に備えた。

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