100年前の味復元、「習志野ソーセージ」は永久不滅!?探訪!ご当地ブランド(6)

千葉県習志野市はソーセージゆかりの地だ(習志野商工会議所提供)
千葉県習志野市はソーセージゆかりの地だ(習志野商工会議所提供)

千葉県習志野市が「日本のソーセージ製法 伝承の地」であることをご存じだろうか? まぁ、知らなくて当然。この手の話は、いつも諸説が存在するからだ。

日本記念日協会は2015年、「ソーセージの日」が11月1日であると認定した。1917年(大正6年)のこの日、「第1回神奈川県畜産共進会」が開かれ、横浜中華街のドイツ人コックに弟子入りした大木市蔵氏が、初の日本式ソーセージを出品したことにちなむ。

とすれば氏が食肉加工会社を構えた横浜が発祥の地となりそうだが、なぜ「習志野ソーセージ」なのか。

それは第1次世界大戦下の1915年9月~1920年1月、習志野市内にドイツ・オーストリア兵の俘虜収容所があったことに由来する。習志野では約1000人の捕虜を収容。当時、収容所長だった西郷隆盛の嗣子、寅太郎は温情を持って捕虜に接し、オーケストラ演奏が催されたことを示す碑が、東習志野の公園の片隅にひっそり佇む。徳島県内で捕虜兵士らがベートーヴェンの楽曲を演奏した話とも重なる逸話だ。

特筆すべきはドイツのソーセージ職人、カール・ヤーン氏ら5人がここでソーセージを製造していたこと。1918年2月、高栄養価なソーセージに着目した農商務省は、畜産試験場の飯田吉英技師を派遣して秘伝レシピを公開してもらった。飯田技師はその製造技術をマニュアル化し、全国の食肉加工業者らに伝授。1919年3月、上野で開かれた初の「畜産工芸博覧会」では主任審査員を飯田技師が務め、ソーセージ製造の普及促進に指導的役割を果たしたことが分かっている。習志野市が「日本のソーセージ製法 伝承の地」たるゆえんだ。

習志野商工会議所の中小企業支援室「習志野ソーセージ等担当」主査、原田真一郎さんによると、「習志野は秋山好古(よしふる)が率いる陸軍習志野騎兵旅団があったことで知られますが、俘虜収容所の存在は“公然の秘密”。幼稚園から大学まで地元で学んだ私も、最近まで知らなかった」という。

野球やサッカーなどスポーツの強豪校として知られる市立習志野高校や京成バラ園、谷津干潟……。習志野と聞くと、そんなイメージが浮かぶ。「東京まで快速で20分と便利で人口も増加中ですが、これといった名物がなくて……」と原田さん。かくして生まれたのが、約100年前の味を復元した「習志野ソーセージ」なのである。

習志野青年会議所のメンバーを中心に2013年から食による地域活性化に着手。「デリカテッセンDANKE」(八千代市)店主の蜂谷正さんが、飯田技師の故郷、茨城県かすみがうら市の郷土資料館に通い、手記や資料を調べて復刻レシピを書き下ろし、有志らで製造したという。塩分配合割合が2.0パーセントと高めで、ややしょっぱいのが特徴なのは、欧州では保存食だったことの名残だろう。

「商議所は2016年、伝承の地である『習志野ソーセージ』のロゴを商標登録し、翌年には地域団体商標登録も完了。量産化のため提携したのが、会長が習志野出身の食品メーカー、日東ベスト(山形県寒河江市)」だった。

あいにくコロナ禍で中止となったが、市民まつりなど各種イベントでも販売し、学校給食にも採用、市内外のスーパーなどでも扱っている。地元愛にあふれる原田さんが描いてくれた地図を手に、習志野ソーセージが味わえる店を探訪した。

「タブリエ」では油が花火のように弾けるソーセージに出合える

京成津田沼駅から徒歩7~8分。12月初旬の夜、足を運んだのが欧風食堂「タブリエ」だ。国内外で味の遍歴を重ねてきたオーナー、中島康敬さん自慢のクラフトビールを味わっていると、目の前に小さなフライパンの上で油がバチバチと爆(は)ぜる「習志野ソーセージ」が現れた。ボイル後に豚脂で豚肉ソーセージを焼くので、ジュージューと音が鳴りやまない。香草のローズマリーやフライドポテト、揚げたカリフラワー、ザワークラウト(キャベツの酢漬け)が添えてある。