服の着方、自然と親から受け継ぐもの
――祥介さんが子供の時、謙介さんから服についてあれこれ教わったことはあるのですか。
祥介「理屈はあんまり言わない。子供のころから、着せられているものを体で覚える。味覚と同じで言葉になんかしなくても、自然と身についていく。海外、特に英国がそうだと思いますが、自分が親から受け継いだ洋服の着方をそのまま、息子に伝える。トラッドなんていうのは理屈なしだから。僕の幼少期の着るモノの思い出は、終戦の翌年に天津からおやじと僕ら兄弟3人が引き揚げてきたとき、おそろいのカーキのつなぎの飛行服を着ていたこと。焼け野原の岡山でリュックを積んだリヤカーを引きながら4人で歩いていると、子供たちがぞろぞろ付いてきた。革靴履いてつなぎを着たのが珍しかったんだね」
――その後、謙介さんはレナウン勤務を経て、大阪市で石津商店を立ち上げました。
祥介「家の中に手縫いする職人さんが5~6人いて、ジャケットとかパンツとか作っていたのを子供ながらに見ていました。できたものをおやじが自転車に積んで心斎橋筋の小売りに納める。お金をもらったら生地屋へさんへ行って何メートルか生地を手に入れてまた作る。仕立て服が全盛の時代にはじめた既製服ですよ」
――家が服屋さんだとよその子供と着るモノが違ったでしょうね。

祥介「というより、疎開先でも割合いいものを着ていましたから、持っていた服は終戦直後の日本の服とは違っていました。親から着せられたモノを普通に着ていたのですが……」
塁「石津家の普通は世間一般とは違うから」
祥介「中学生のとき、学生服の下に黄色いセーターを着ていったら、女のセーターを着ている、とはやされた。制服の下に着るセーターはVネックで紺でしたからね。高校生のときには上は制服、下をグレーのフラノのパンツにしたら、朝礼で壇上に上げられて、こういう格好は校則違反だから、と先生に注意されました。そういう時代」
――謙介さんから服装で注意を受けたことは。
祥介「後にも先にも一度だけ。高校の友達に服地屋の家の子供がいて、彼が自分の家の婦人用ツイードの茶色の生地を2着分こっそり手に入れてきて、『おまえのところで作って』と。それが仕立てたのが僕にとって初めての背広。得意になっていたら、おやじから『茶色はやめろ。背広を着ることはいいが、茶色は洋服に慣れ親しんだ人のもの。最初の背広を茶色にするのは間違っている』と言われてさ」
――塁さんには自分の思う服を着せていたのですか。
祥介「そうですよ。塁が生まれたときはVANの子供服があったからそればかり」
塁「70年代から80年代に学生時代を過ごしてDCブランドブームもありましたが、やっぱり、みなが黒づくめのカラスルックを着ても僕は着なかった。アメリカやイギリスがルーツの古着店には行く。トラッドの家に生まれたから冒険はほどほど。でも、時代的にストリートファッションには結構影響されました。祖父や父からは、服だけではなく、住まい方や車、音楽などライフスタイルの影響を色濃く受けたと感じます」
(聞き手はMen's Fashion編集長 松本和佳)
服飾評論家。1935年岡山市生まれ。明治大学文学部中退、桑沢デザイン研究所卒。婦人画報社「メンズクラブ」編集部を経て、60年ヴァンヂャケット入社、主に企画・宣伝部と役員兼務。石津事務所代表として、アパレルブランディングや、衣・食・住に伴う企画ディレクション業務を行う。VAN創業者、石津謙介氏の長男。

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