大フォークダンス大会を開くと、来場した女生徒であふれ、何重にも輪が生まれた。ダンスをする女生徒の数が暁星の男子生徒を上回るほど盛況でした。普段はこわもての先生たちに生徒役を演じてもらい、逆にこちらが先生のものまねをする「青空教室」や、「レコード大賞」のような音楽イベントも開催しました。それで予定通り夕方6時にはピタッと終わるので、口うるさい先生から「さすがに血は争えないな」と妙に感心されたのを覚えています。

さすがにタレントは呼べませんでしたが、この文化祭の話にも後日談があります。これをきっかけに暁星のエトワール祭は多くの来場者を集める一大行事になりましたが、数年後に突如取りやめになったのです。学校側の理由は「本来の学園の趣旨とは異なる華美な演出が目立つようになった」ということでした。その後長く中断していましたが、現在は復活しています。暁星はルールが厳しく、お堅い学園です。そのスキを縫うようにして、何か面白いことができないかと、狡猾(こうかつ)なぐらいに頭を使いました。

「暁星では何かあれば『ラ・マルセイエーズ』を歌う。あれは戦いの歌なんです」と語る

しかし、肝心の受験勉強にはあまり頭を使いませんでした。暁星からは東京大学や早稲田大学、慶応義塾大学に進学する生徒は少なくありません。ただ、お遊びグループだったので、大学の共通1次試験の前日まで仲間とマージャンをやっていました。成蹊大学に進みましたが、そこでも飲み会とマージャン漬けの日々でした。

芸能界の裏方役には興味を持ったが、父の事務所を継ぐ意志は全然なかった。

とにかくしゃべり好きだったので、ラジオが面白いだろうと、バブル経済絶頂期の1989年にニッポン放送に入社しました。その時の保証人はビートルズを日本に呼んだプロモーターとして知られる永島達司さんがやってくれました。父とは友人でもありました。

ニッポン放送では編成部門に所属し、番組の企画コーナーに出演したりし、楽しく仕事をしていました。ただ希望していた現場のディレクターをやる機会はありませんでした。すると、入社4年目の頃、父から「うちに来ないか」と誘われることに。しかし、「ホリプロはお堅いから嫌だ」と何度も断りました。

ホリプロのマネジャーとはラジオ側のスタッフとして接していました。こちらはラフな格好なのに、ホリプロ側は全スタッフがいつもスーツにネクタイ。父は芸能事務所を社会的に認知させるため、社員の身だしなみにうるさく、他の事務所に先駆けて株式公開にまで踏み切っていました。ただ、最後は「お前がニッポン放送みたいに変えればいいじゃないか」と口説かれ、入社を決めました。

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