初入選の会場で佐々木はそう思うこととなり、会期中その年の受賞作を中心に連日じっくりと観察した。受賞作の特徴として気がついたのは、半具象で工芸的なマチエール(絵肌)、色彩が叙情的であるということなど。1学年上の島田章三が在学中に国画賞を受賞していたのも、やはりこの傾向にそっていたからであろう。自分の初入選作はやや抽象性がまさっていた。人生一度だけ、受賞という世俗的な栄達をめざそう。ついでに、こうむったばかりの失恋の痛手からなんとしても立ちあがり、相手を見返してやる。出品時期が重なる卒業制作など、ただの学内展にすぎないので無視しよう。そんなものより、世の中にひろく通用する国画賞だ。

パッションというよりヤマッけ

初入選の喜びにひたることもなく、すぐさまそのための制作に入る。出品制限は5点。ならば5点出そう。キャンバスは高価で手が出ず、巻かれたままの安価な麻布を買って手づくりの木枠に自分ではった。「傾向と対策」にそった必死の制作が丸1年つづく。途中、一晩で描いた卒業制作は40人あまりの中で16位。まったく気にしない。

とにかく国画賞あるのみ。芸大を卒業した春、入選発表を見に行くと本作品《動物祭トリA》含め2点がみごと国画賞を受賞した。満23歳の若さだった。

「結局、パッション(情熱)だね。国展(国画会展)は5点まで出品オッケーといっても5点出す人間はまずいない。5点も出したことで、審査員たちもパッションを買ってくれたんだろう。でも、こちらはパッションというよりヤマッけだったけど。それに恨みつらみ、怨念、情念、エロスというくらいのことだった。それでも、画面のどこをとっても味があって、表現にどこか内的なもの、必然的なものとかあったから受賞できたんだろう。旭丘高校の美術科に学んだのも、刺激的なことが多く、おおきかった。3年間の在学中、中部日本美術展や中央の公募団体展に積極的に出品する仲間がけっこういてね。ひろい世の中で勝負しなきゃ、と。荒川修作なんか、描くつもりがないくせにみなの前で100号のキャンバスをはってみせたりね。ずいぶんあおられたもんだ。そう思うと、人生はチャンスをつかまないと。専攻科修了のおり『美術手帖』誌が針生一郎(美術評論家)の推薦で『美術学校になにを学ぶか』という原稿を依頼してきた。そこで、めいっぱい自分を主張してみた。何度も推敲(すいこう)してね。するとのちに同誌から、作家のアトリエを訪問し絵画技法についてインタビューしてまわるという仕事がまいこんできた。左翼系の美術評論家の文体に嫌悪感があったので、『平凡パンチ』の文体でいくぞと心にきめて、これもなんとかこなし、いろんな意味で自分の世界がひろがっていったね」

その後、佐々木は人間のドロドロとした内部を見つめるかのような創作を色彩もゆたかにつづけた。生涯の師となった三尾から、得意とする「女」を描けとのアドバイスもあり、「裸婦の画家」として画壇で確たる地位をきずいていく。近年は、東日本大震災などをテーマにした裸婦も描いてきた。石こうデッサンが大好きであった受験生時代にもどったかのような古典の調子をくわえつつ、佐々木のひろい世界観をより感じさせるような制作となっている。(敬称略)

中山真一(なかやま・しんいち)
1958年(昭和33年)、名古屋市生まれ。早稲田大学商学部卒。42年に画商を始め61年に名古屋画廊を開いた父の一男さんや、母のとし子さんと共に作家のアトリエ訪問を重ね、早大在学中から美術史家の坂崎乙郎教授の指導も受けた。2000年に同画廊の社長に就任。17年、東御市梅野記念絵画館(長野県東御市)が美術品研究の功労者に贈る木雨(もくう)賞を受けた。各地の公民館などで郷土ゆかりの作品を紹介する移動美術展も10年余り続けている。著書に「愛知洋画壇物語」(風媒社)など。

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