あるキングメーカーの限界 史記が描いた「評判の人」司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん

「奇貨」(書・吉岡和夫)
「奇貨」(書・吉岡和夫)
中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(81)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「見込んだ人に託すなら 史記の刺客・荊軻、失敗の理由」

紀元前221年に中国を統一し、始皇帝となる秦(しん)の王、政(せい)は、趙(ちょう)に差し出された人質、子楚(しそ)の子として育ちました。子楚は秦の太子(王位継承者)に20人余りいる子の一人にすぎず、故国からもぞんざいに扱われていたのですが、呂不韋(りょふい)という大商人の尽力で王位に就き、政を跡継ぎとしました。

まず「始皇帝の父」を王位に

呂不韋は「キングメーカー」になりましたが、最期は自ら毒をあおる不幸なものでした。司馬遷は史記「呂不韋列伝」の末尾で、孔子の言葉を引き「聞(ぶん=評判、ここでは評判だけの人物)とは、其(そ)れ呂子(=呂不韋)か」と批判的に取り上げています。今回は大出世した「聞」の人、呂不韋の成功と失敗について考えたいと思います。

趙の都・邯鄲(かんたん)は商業の盛んな街で、各地を巡っていた呂不韋もよく滞在しました。ある時、秦の王族でありながら思うにまかせぬ生活ぶりだった子楚を見つけ、こう口にします。
 (こ)れ奇貨(きか)なり、居(お)く可(べ)し。
これは奇貨(掘り出し物)だ。手元に置いておこう――。「奇貨居くべし」という言葉は現代でも、珍しいものは取っておくといいことがあるとの意味で使われます。呂不韋のこのひらめき、おそらく商人としてのセンスは、先見の明と言えなくもありません。
呂不韋が子楚に「あなたを出世させてさしあげましょう」ともちかけると、子楚は「まずはあなた自身が出世してからにしてくれ」と言い返します。これに呂不韋は「あなたが出世すれば、私も出世することになるのです」と誘い、秘策を授けました。秦の太子の寵愛(ちょうあい)を受けながら子のなかった正室の華陽(かよう)夫人を財力と情に訴えて動かし、子楚を太子の跡継ぎに推薦してもらうシナリオです。
イラスト・青柳ちか
呂不韋は子楚に大金を与え、各地の有力者と交際させます。そして自分は秦に入国して華陽夫人の姉に取り入り、夫人に豪華な手土産を献じる機会を得ます。そこで子楚が賢く、交友関係が広いことをPRし「子楚は昼も夜も太子や夫人を思って涙を流している」と伝えました。
夫人の姉も「美貌によって愛されている者は、美貌が衰えると受ける愛も弱まります。太子に愛されている今のうちに、子楚を世継ぎとして決めておいたら安心でしょう」と助言します。夫人はその通りに太子を説得し、子楚は太子の後継者となって、やがて王に上り詰めます。呂不韋は国政を担う丞相(じょうしょう)の職に就きます。

呂不韋の策略はみごとなまでに当たりました。奇貨が本当の意味で奇貨になるまで待つのではなく、最初から奇貨と信じて磨き、積極的に利用していったのはさすがでした。金の力があったのはもちろんですが、秦の王族の内情をさぐる情報収集力や、人を動かす弁論術にたけていたのは確かです。

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聞の人、達の人