筒美京平 生涯セールス第1位、時代超えてヒット量産
昭和中期から平成にかけて、数多くのヒットを生み出した作曲家・筒美京平が10月7日、80歳で亡くなった。本人はメディア露出に消極的で裏方に徹していたためか、テレビでの紹介は控えめだったが、生涯に作曲したのはJASRAC登録曲だけでも2700曲以上。日本の音楽シーンにおける影響力はすさまじく大きい。
セールス面を見ると、作曲家としての総売り上げは歴代1位、1960年代~70年代を中心に手掛けていた編曲家としても歴代4位となる。作曲した楽曲の累計売上枚数だけ見れば、筒美と小室哲哉は同じ7000万枚台だが、小室が年間10作以上のミリオンヒットが出ていた90年代に楽曲を量産したのに対し、筒美はミリオンセラーが年間1枚出るかどうかだった60年代から80年代にヒットを着実に重ねている点が大きく異なる。
筒美の作品は1971年から87年までの間に10回も作曲家別売上で年間トップになった。さらに、オリコン1位を獲得した全39曲は、60年代の「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)、70年代の「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)など9作、80年代の「スニーカーぶる~す」(近藤真彦)「仮面舞踏会」(少年隊)など26作、90年代の「TENCAを取ろう! ‐内田の野望‐」(内田有紀)と「やめないで,PURE」(KinKi Kids)、そして00年代の「AMBITIOUS JAPAN!」(TOKIO)と5年代にまたがる。これは筒美ただ1人が持つ記録だ。
それぞれの時代に合わせてヒット曲を生み出せる、卓越したセンスを持っていたのが筒美京平という作曲家のすごみだ。特に70年代から80年代は、当時世界的に流行していたモータウンやディスコ、R&Bなどのサウンドをいち早く取り入れていった。日本の歌謡曲をお洒落なポップスに変革していった第一人者と言えるだろう。
筒美の楽曲を歌うことで育った歌手も多い。男性歌手では、郷ひろみが20作、野口五郎が11作、筒美の楽曲でオリコントップ10入りを記録しているが、他にも近藤真彦、田原俊彦、少年隊、SMAP、KinKi Kids、TOKIOなどジャニーズアイドルへの楽曲提供が目立った。
女性アイドルでは、70年代に南沙織、麻丘めぐみ、岩崎宏美、太田裕美、80年代には松本伊代、斉藤由貴、本田美奈子、中山美穂などに、デビューから数年の間に楽曲を提供してブレイクに導いた。
さらに、いしだあゆみ、ジュディ・オング、桑名正博、庄野真代、C‐C‐B、アイドルでは早見優、小泉今日子、河合奈保子など、筒美の楽曲によって大胆なイメージチェンジを図り、大きくステップアップした歌手も多い。
90年代に入ると井上陽水やNOKKO、藤井フミヤ、小沢健二などシンガーソングライターへの楽曲提供も増えていく。これは筒美の楽曲を聴いて育ったアーティストがリスペクトの意味をこめて作曲を依頼した側面も大きいだろう。
今でも、「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)「また逢う日まで」「ブルー・ライト・ヨコハマ」「卒業」(斉藤由貴)など彼が手掛けた楽曲が懐メロ番組などで放送されるたびに、音楽配信やカラオケの各チャートで急上昇することが多い。これはただ単に楽曲が売れたということにとどまらず、その楽曲が人々の心に残っていることの証しだ。近年、海外ではシティポップブームが、日本国内では昭和歌謡再評価が起こっていることから、彼のハイセンスな音楽は今後も聴き継がれていくはずだ。
ジャニーズ育てた陰の立役者
筒美は近藤真彦に1980年のデビュー曲から84年までで10作を提供した。また、少年隊は85年のデビュー曲「仮面舞踏会」から86年「バラードのように眠れ」、87年「STRIPE BLUE」「君だけに」、88年「じれったいね」などの6作で1位を獲得している。ほかにも田原俊彦やKinKi Kids、TOKIOにも、楽曲を提供。彼らがトップアイドルに上り詰めた陰の立役者と言える。
(「日経エンタテインメント!」12月号の記事を再構成 文/臼井孝)
[日経MJ2020年12月4日付]
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