
追い詰められた時の対処法
――99年の世界ハーフマラソン選手権で銀メダルを獲得。その後も数々の国内大会で優勝し「ハーフの女王」として頭角を現しましたが、フルマラソンに挑戦しようと思った理由は?
ハーフマラソンでは世界で入賞し、1時間8分台を出せる実力がついたので、監督やコーチからフルマラソンに挑戦したら面白いかもと言われ、私も挑戦したい気持ちが高まりました。
最終的な引き金は、高橋尚子さんがシドニー五輪で金メダルを獲得されたときの映像を見ながら、あの大歓声を私も独り占めしたいと強く思ったことです。先輩方が「自分もやれるかもしれない」という道筋を残してくださったことは、とても大きかったですね。
――2001年に開催された世界陸上選手権エドモントン大会の1万メートルの代表に選ばれ、世界での経験を積み、2002年に初マラソンの名古屋国際女子(現:名古屋ウィメンズ)マラソンで、2時間25分35秒を記録していきなり優勝されます。
中国の昆明で順調に練習を積んで、渋井陽子選手の初マラソン記録(当時)だった2時間23分11秒を目標にしましたが、午後スタートだったので気温が上昇し、後半少しバテてしまい、目標には届きませんでした。翌年の大阪国際女子マラソンで2時間21分18秒で優勝し、当時の国内最高記録をマーク。同年の世界選手権パリ大会で銀メダルを獲得して、念願だったアテネ五輪の切符をつかむことができました。
――切符をつかむには、私たちの想像を絶する練習量だと思うのですが、くじけそうになったことはないのでしょうか?
もちろんありますよ! 思うように走れなかったり、練習で自分はよくやったと思ったのに、広瀬コーチは「まだまだだ!」と言ってきたり。いじけますよね。監督やコーチはなかなか褒めてくれなかったのですが、それは私の性格をよく理解しているからこそ。褒めて伸びるのではなく、反骨精神で伸びていくタイプなので。褒められるといい気になっちゃいますし(笑)。
でも、あまりにも悔しい時や追い詰められた時は、監督やコーチの前ではぐっと堪えて、部屋で独りでシクシク泣いたり、わーって叫んだり、枕を壁にぶつけたり。人に見られないところで毒素を吐き出してモヤモヤを落ち着かせ、気持ちをコントロールしていました。一晩寝て朝起きたらケロッとしてスッキリしています。引きずっていても仕方がないし、モヤモヤしていたらいい走りはできません。次の日は新しい練習メニューに立ち向かわなければいけないので。
五輪で金メダルを獲得するために大切なこと
――夢の大舞台の切符をつかみ、プレッシャーや緊張はなかったですか?
アテネ五輪の時は、計画通りにトレーニングが積めて早く走りたい気持ちが大きく、そんなにプレッシャーは感じてなかったです。でも、直前で風邪を引いて喉を痛めちゃって(苦笑)。
当初、内臓疲労などから直前で練習が積めないことが一番怖かったので、食事や気温には十分気をつけていました。ギリシャ・アテネは暑いので、涼しいスイス・サンモリッツで1位でゴールテープを切るイメージでトレーニングを積み、急激な気温の変化を避けるべく、アテネに入る1週間前にいったんドイツのフランクフルトで事前合宿をしたんです。すると予想に反して冷夏で寒く、体調を崩しました。
アテネに入るとやっぱり暑くて。極め付きはレースの前日、予定していた練習場所が工事のせいで急に変更になり、着替えを持ってきてなかったので汗をかいたまま移動することに。藤田監督に「アホー! 着替えを忘れたんか!」と怒られました。でもそこで怒られたおかげで、ある程度緊張はあったと思うのですが、「もう、やるしかない」と開き直れました。
――ベストコンディションではない中で、きちんと結果を出すのがすごいと思うのですが、大舞台で結果を出せる人とそうでない人の違いはなんだと思いますか?
今までやってきたトレーニングに自信があるかどうかが大きいのではないでしょうか。不安材料があれば、その不安が足かせになることもあると思います。アテネ五輪のスタート地点に立ったとき、「私はこの中の誰よりも練習してきた」という揺るぎない自信がありました。1人で走る練習は本当に自分との戦いだから、練習の方がレースよりきついんです。練習は120%で、レースは100%ぐらいの感覚でしょうか。1日最高65km、月間1370km走ったことがありましたが、練習で追い込んで築き上げたものが自信になり、レースに臨むときの余裕になる。だから金メダルを獲得できたのかなとも思います。
(第2回に続く)
(ライター 高島三幸、写真 水野浩志)

〈訂正〉12月10日3:00に公開した「マラソン野口みずきさん 失業の中で育んだプロ意識」の記事中、「田中育子選手」は誤りで、正しくは「田村育子選手」でした。本文は訂正済みです。