実在した「死者運ぶ」鉄道 ロンドン走る産業革命の影

日経ナショナル ジオグラフィック社

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1854年、英国ロンドンのウォータールー駅にできたロンドン・ネクロポリス鉄道の入り口。1890年代に撮影(SCIENCE & SOCIETY PICTURE LIBRARY/GETTY)

19世紀の英国ロンドンは破裂寸前だった。産業革命をきっかけに、地方の若者が職を求めて押し寄せ、世界最大の都市は人であふれかえった。工場からすすだらけの煙が吐き出され、道路は馬のふんに覆われ、テムズ川は生活排水で大いに汚れた。

生きている人だけでなく、死者も混雑した。それまでロンドンの死者は教会の小さな墓地に埋葬されてきたが、人口が急増したおかげで、こうした墓地だけでは対応できなくなった。死者たちは小さな墓地にすし詰めにされ、大雨が降るたび遺体があらわになった。

1830年代、ロンドン初の大規模な民営墓地が認可を受けた。広く隅々まで手入れされた公園のような7つの墓地は、「マグニフィセント・セブン」と呼ばれたが、高価な墓地だったため、利用できたのは金銭的に余裕のある人々だけだった。

鉄道×墓地の壮大な計画

産業革命によるロンドンの人口急増と、それに伴う埋葬問題。起業家のリチャード・ブラウンとリチャード・スプライは産業革命の発明品に問題の答えを見いだした。鉄道だ。この新しい輸送手段が富裕層だけでなく一般大衆にとっての解決策になると2人は確信した。

ブラウンの死後間もなく発行された「英国人名事典」によれば、ブラウンは「いくつもの計画に忙しく取り組んだが、その大部分は夢のような計画」で、パンフレットや手紙で熱心に宣伝していたという。スプライは債権を支払えない者を収監する「債務者監獄」に入ったこともある弁護士だった。

2人は、ロンドン市民の遺体を永遠に埋葬し続けられる巨大な墓地の計画を練り上げた。

当時、ロンドンはものすごい勢いで拡大していたため、2人は郊外に墓地をつくることにした。手ごろな運賃の高速鉄道で遺族、会葬者、そして、ひつぎを遠く離れた墓地まで運ぶ計画だ。

1852年、ロンドン・ネクロポリス・アンド・ナショナル・モーソリアム社が設立され、ロンドンの南西約37キロのサリー州ウォキングに2平方キロ弱の墓地をつくる計画が始動した。契約の不備と内部紛争が原因で、ブラウンとスプライは会社から締め出され、1ペニーの報酬も得ることができなかった。

一般大衆も眠れる、自然の中の墓地

1854年、墓地が完成。当時の墓地としては世界最大で、ブルックウッド墓地と名付けられた。マグニフィセント・セブンの流れをくんでおり、広告には「木々と花々、曲がりくねった小道が織り成す豊かな風景、何よりも秩序に配慮した区画」と書かれていた。ロンドンの日常とは全く異なる空間だ。針葉樹の森に囲まれ、迷子になるほど広大だった。

ブルックウッドとマグニフィセント・セブンには決定的な違いがある。コストだ。ロンドンの労働者にとって郊外の墓地は、豪華な都市の墓地よりはるかに手ごろだった。ブルックウッドへの鉄道の旅は、短時間で安価でもあった。墓の価格もはるかに安い。鉄道のおかげで、自然の中で死者を哀悼することは、ロンドンのエリートのみに許されるぜいたくではなくなった。

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