2個のメダル生んだ偏食変えた母の料理 有森裕子さん
食の履歴書
ランナーとして致命的な極度の貧血だった有森裕子さん(53)。オリンピックで2度メダルをとった体に鍛えたのは、旬にこだわる母の手料理だった。「新型コロナ危機は免疫力を高める食を知る好機」。季節の食材が体をつくり病を防ぐ。「今こそ当たり前の食を」と説く。
岡山県で生まれ育った。1928年のアムステルダム五輪800メートルで日本女子初のメダリストになった人見絹枝さんと同郷だ。有森さんの92年バルセロナ五輪での銀メダル獲得は、女子陸上選手としては人見さんに次ぐ64年ぶり史上2番目の快挙だった。
スポーツエリートのような印象だが、有森さんの陸上人生は「補欠ばかりで記録とは無縁だった」。インターハイにも国体(国民体育大会)にも出たことがない。実業団(リクルート)になって注目される、異例の遅咲き。それは食とも無縁ではなかった。
好き嫌いの多い子供だった。父親の実家は仕出屋で、母は大学の食堂に勤める調理師。両親ともプロとして料理に関わっていた。しかし、「小学校の時は煮たニンジンや大根、あとレーズンにチーズが食べられませんでした。味や食感が苦手で」。食の偏りとの関係はわからないが、アトピー性皮膚炎がひどかった。心配した母は「あの手この手で料理を工夫してくれた」。
忘れられない料理がある。ある日、苦手だったセロリを母が千切りにして、さきイカと混ぜ、酸味のあるドレッシングとあえてゴマを振りかけた見たこともないサラダを作った。「これがかみ応えのある不思議な食感で、セロリ独特の味が消えて驚くほどおいしかったんです」
感謝するのは「母が季節ごとの旬の食材をよく知っていたこと」だ。「今はこれがおいしいのよ」と言いながら、当たり前のように旬の料理が出た。食べ物は旬の時と、そうでない季節では栄養価が全然違う。母親の工夫のおかげで次第に好き嫌いがなくなり、アトピーも良くなった。
ところが新たな問題が起きる。本格的に陸上の部活動を始めた高校時代、極度の貧血になったのだ。女性なら最低でも12はあるべきヘモグロビン濃度が半分の6しかなかった。鉄欠乏性貧血。「鉄分を吸収しにくい体質で、ランナーにとっては致命的です」。そして、母の奮闘が続く。「母のお弁当には鉄分の多いレバーやホウレンソウやヒジキがたくさん入っていた」
愛情弁当の甲斐あって日本体育大学に進学した頃には貧血は収まった。だが、寮生活で環境は暗転する。寮の食堂は夜にお粗末な食事が出るだけで、朝は各自が自前で用意しなければならない。「いつもパンにバターとジャム。ピザがごちそうだった」。今ではちょっと信じがたい話だ。
「寮の女子は体形がみんな同じじゃないか」。ある先生が指摘した。「みんなぶよぶよの締まりのない体つきでした」。栄養バランスの偏りのためだ。それでようやく、ご飯と味噌汁と卵の朝食が食堂で食べられるようになったという。「スポーツ選手が食事を気にするようになったのは、ずっと後のことです」
アトランタ五輪で専属の栄養士
「チーム有森」として96年のアトランタ五輪で2回目のメダルを取りにいった時、初めて専属の栄養士が加わった。故小出義雄監督は食事に厳しかった。「監督と相談しながら、練習メニューに合ったバランスの良い献立を朝も夜も用意してくれました」
食のこだわりには理由がある。ある「事件」があったのだ。リクルートに入社後、国体の最終予選で1位になりながら、登録ミスで出場がかなわなかった。「誰も謝ってくれませんでした。逆に『実力がないからだ』と言われた」。食事を含めたあらゆる努力で「強くなってやる」と自分に言い聞かせた。「その時の怒りが私を変えました」
2大会連続の五輪メダルという結果がどうしても必要だった。「初めて自分で自分をほめたい」。アトランタ五輪で最も有名なあの言葉は、誰も知らない決意で体を鍛えベストの準備をした結果生まれた。そしてその誇りがプロランナーの草分けとして活躍してきた今につながっている。
新型コロナ感染拡大で思うことがある。「みなさん免疫を高めることを意識して、食事について考える時間が増えた」。パンデミックは今回だけではないだろう。「今は食を知るチャンス。昔は当たり前だった旬の食材をしっかりとれば、必ず免疫は高まります」。そしてこう付け加えた。「日常的にこれほど様々な食材を選べる国は、世界中にそんなにないと思う」
【最後の晩餐】迷わずおにぎりですね。手のしわとしわを合わせてにぎる幸せのソウルフード。大学時代、バレンタインデーに好きだった同級生に1合の巨大おにぎりをあげたこともあります。あれは迷惑だったかな。具は梅干しと生タラコで締めたい。それが究極のぜいたくなんです。
特徴あるシャルキュトリー
ハムやパテなどの肉の加工品をシャルキュトリーという。本場の味を求めてフランス人も来る店が、JR目黒駅近くにあるフランス郷土料理の「ビストロ・トポロジー」(電話03・6420・0136)だ。有森裕子さんがまず最初に頼むのはシャルキュトリーの盛り合わせ(写真は8種類、2860円)。「一つ一つ味に特徴があって本当においしい。先日はテークアウトして家で食べました」
オーナーシェフの小田利也さんは妻の未来さんと2人でもてなす。こだわりは旬の国産豚をメニューに合わせて吟味すること。約25種類のシャルキュトリーは2週間ほどかけて仕込む。「ワインに合うように塩をしっかりなじませて味は濃いめにする」と小田さん。保存料をほぼ使わない自然な味わいが有森さんのこだわりと重なる。
(大久保潤)
[NIKKEIプラス1 2020年11月28日付]
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