「食いっぱぐれリスク」からの解放

17年6月、猪尾氏はJOINSを立ち上げる。人材領域での経験はなかったので、その分野で知見を持つ2人が共同創業者となった。一人は博報堂出身でマーケティング・人材育成のコンサルタントの山本直人氏。もう一人は、ベンチャー企業の成長支援や、ビジネスリーダーの人材紹介などを手掛けてきた杉浦元氏だ(現在、両氏はJOINSの株主兼アドバイザー)。

創業と同時に、猪尾氏自身も個人事業主として複数の仕事を始めた。短期的な売り上げの確保に引っ張られずに事業をしっかり検証できるよう、JOINSから自分に出す給料はゼロにし、生活資金は兼業で稼ぐことにしたのだ。新規事業開発の経験を生かして、長野県白馬村のグランピング施設運営会社、大手出版社、大手不動産会社などの新規事業の立ち上げを手伝った。こうした収入源を複数持つことで、「食いっぱぐれるかもしれない」という恐怖から解放され、心が軽くなるのを実感した。

一方、JOINSの事業の滑り出しは順調とは言い難かった。起業に先立つ17年3月には、政府が「働き方改革」の実行計画を決定。翌18年には、厚生労働省がモデル就業規則から副業・兼業を禁止する規定を削除し、「副業元年」と呼ばれた。そんな追い風は吹いていたが、まだ大きな波は来ていなかった。待つしかないと覚悟し、首都圏から近い長野県にエリアを絞り込んで、少しずつ実績を積み上げる戦略を取った。その間、焦らずにいられたのは、JOINSの従業員全員が猪尾氏と同様に他に仕事を持っていたからだ。

「経営者も従業員も収入を当社だけに依存していないからこそ、目先の売り上げ目標などに過度に振り回されず、何のためにこの事業をやっているのかという本質に意識を集中させることができた。従業員全員が副業という形で、会社が成り立つのかと心配する人もいますが、逆にこれは当社の強みになっていると思います」

事業を進める中で、もう一つ気づいたことがある。それは都市部の大手企業で働く副業人材と、受け入れ側の地方の中小企業の間で生じがちな「心の壁」だ。両者の間では文化や価値観が違うことが多いが、業務やスキルのマッチングだけで仕事を始めると、人間関係がギクシャクしたり、信頼関係の構築までに時間がかかったりしてしまう。リモートワーク中心の働き方ではなおさらだ。

その課題を解決するために「心理的安全性プログラム」と呼ぶ独自の仕組みを開発・導入した。ヒントを得たのは、知人に勧められて参加したワークショップだ。講師はセルフマネジメンントの第一人者であるジェレミー・ハンター准教授(米クレアモント大学ピーター・F・ドラッカー経営大学院)だった。終了後、猪尾氏は同准教授にプログラムの開発を直接、掛け合った。2年かけて共同で練り上げたプログラムは、企業の担当者と、副業人材の双方が、共通の質問に答えながら、初対面でも安心してお互いの価値観を開示しあえるように設計されている。

19年、ついに待っていた「波」が来た。それまで政府は地方創生の柱として「移住・定住」に力を入れてきたが、東京一極集中に歯止めがかからないことから「関係人口の創出」に軸足を移し、副業・兼業の推進に本腰を入れ始めたのだ。さらに今年はコロナ禍を背景にリモートワークが普及。地方企業と都会で働く人の双方で副業・兼業へのニーズが拡大した。JOINSに登録する会社・人材の数は急増した。

兼業で働く八方尾根開発のグランピング事業の同僚と(左が猪尾氏)

事業が軌道に乗り始めた今も、猪尾氏は自社のサービスを使って、白馬村での副業を続けている。自分の培ってきたスキルや経験が誰かの役に立つのは、純粋にうれしいし、そこから生まれる人や地域とのつながりは、人生をより豊かにしてくれる。もちろん、自分や家族を守る経済的なセーフティーネットにもなる。

「社長を含め、全員が副業という新しい働き方で会社を成長させられることも証明したい」

猪尾氏はそう意気込む。副業を認める企業が増えている流れを受けて、来年以降も副業の進化は止まりそうにない。「全員副業」のJOINSはそれ自体が副業のメリットを物語る存在となっていくはずだ。

(ライター 石臥薫子)

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