日経ナショナル ジオグラフィック社

2015年、ルケッティ氏のチームは地図で示されたエリアの発掘調査を行った。メタクエムという先住民の町から程近い場所だ。ヨーロッパからの入植者たちは大抵、先住民が住んでいた場所の近くに村を築いたので、調査を始める場所としては妥当に思われた。

調査に当たったファースト・コロニー基金の考古学者、クレイ・スウィンデル氏は、80人から100人ほどが住む、柵で囲まれた村があったようだと言う。そのすぐ外、サイトXと名付けられた場所に、砦は見つからなかった。しかし、消えた入植者たちが使っていたと彼らが考える、英国製の陶器の破片が24個見つかった。

そして2020年1月、サイトXから3キロほど北、サイトYと名付けられた場所で彼らは再び調査を行い、様々なヨーロッパの国々の陶器がサイトXよりもはるかに多く見つかったことをこの10月に発表した。ルケッティ氏は、1587年にホワイトがロアノーク島を出航した後、入植者の少なくとも一部が陶器を持ってロアノーク島から移動したのだろうと考えている。1家族ほどと思われる小さなグループが、助けを待つ間、先住民たちのそばで畑作をしていたようでもあると言う。

入植地の総督が描いた地図には、砦のシンボルを隠すように紙片が貼られていた。ロアノーク島から内陸側へ80キロ移動した場所だ。研究者たちは、消えた入植者たちの生き残りがここにいた証拠を発見したと考えている(PHOTOGRAPH BY STUART CONWAY, NATIONAL GEOGRAPHIC)

陶器の破片から謎を解く、鍵は年代

1607年に建設されたジェームズタウン(北米で初めて英国人が定住した植民地)の砦を調査した、考古学者のウィリアム・ケルソー氏は、今回の発見が「初期北米史最大の謎の一つを解き明かすものだ」と自信をのぞかせる。しかし、結論に飛びつくべきではない、と注意を促す考古学者もいる。

「私は懐疑的です」と話すのは、米イーストカロライナ大学の考古学者チャールズ・ユーウェン氏だ。「彼らは、仮説の誤りを検証してゆくという科学的な方法を避けて、仮説を証明しようとしています」

ルケッティ氏の主張は、小さな陶器の破片が、ある特定の時期のものであると言えるかどうかにかかっている。陶器の様式は長いこと変わらなかったので、それらが具体的にいつのものなのかを明らかにするのは簡単ではない。

サイトXおよびサイトYで見つかった陶器は、20年後にジェームズタウンからやってきた英国商人たちが残していったものだという可能性も大いにある。しかし、2つの異なる場所から発見されたという事実は、ルケッティ氏の主張を補強するものだとする点で研究者たちの意見は一致している。

「問題の陶磁器がおそらく16世紀後半のものであり、消えた入植者たちが使っていた可能性があるという解釈に、私は異議を持っていません」。英ロンドン博物館の専門家、ジャッキー・ピアース氏はそう結論する。こうしたスタイルの陶器は17世紀に入っても作られたが、今回発見された特定のものが、英国商人が流入し始めた1650年よりも後に作られた可能性は低いと言う。

とはいえ、発見された破片はその後の数百年間にやってきた入植者やアフリカ人奴隷たちがかぶせた土と混ざった状態だった。エリザベス1世の時代の入植地であることを明確に示す証拠はまだ見つかっていない。「16世紀のものであると層位学的に示せる証拠が発見されないといけません」。米ミシガン大学の考古学者、ヘンリー・ライト氏はそう話す。

ジェームズタウンではなくロアノークの入植者たちのものだったことを示す手がかりはある。サイトXおよびサイトYからは、17世紀のクレーパイプが見つかっていないことだ。ロアノークへの入植事業においては、早い段階でたばこを吸うという習慣が先住民から伝わり、ローリー卿がそれを英国で流行させていた。先住民のものとは材質もデザインも異なる細身のロンドン式パイプは、1600年代初めにはすでに、英国商人にとってなくてはならないものだった。

しかし、こうしたパイプはサイトYから発見されていない。ピアース氏は、この点に重要な意味があると言う。「消えた入植者たちがたばこを吸っていたとすれば、ロンドン製のパイプではなく、先住民と同じものを使っていたはずです」

サイトXで発見された英国製の陶器の破片は、悲運の入植地の生存者が使っていた壺(つぼ)の一部かもしれない(PHOTOGRAPH BY MARK THIESSEN, NATIONAL GEOGRAPHIC)

入植者たちは先住民社会に溶け込んだ?

ルケッティ氏のチームがサイトXを発掘していた頃、英ブリストル大学の考古学者、マーク・ホートン氏率いるグループが、今日のハッテラス島、かつてのクロアトアンにある先住民の村の遺跡を調査していた。クロアトアン考古学協会のボランティアたちとともに彼らが発見したのは、レイピアと呼ばれる16世紀の礼装用の剣の柄や銃の一部を含む、ヨーロッパ製の遺物だった。

協会のトップであるスコット・ドーソン氏は、これらは入植者たちがクロアトアンの人々と接し、同化していった証拠だとみる。「彼らがどこに行ったのかだけではなく、到着後に何が起こったのかがわかってきたのです」。入植者たちについて同氏は近著にそう書いている。

ホートン氏はまだ調査結果を発表していないが、発見された遺物が、全て17世紀半ばから後半にかけて意味を持っていた点に注目すべきだろう。というのも、これらは入植者たちが子孫に受け継いだものである可能性もあるし、ジェームズタウンとの交易によって得られたものである可能性もあるからだ。

ルケッティ氏は、ロアノークから大人数がクロアトアン(ハッテラス島)に移住したわけではないだろうと考えている。理由の一つは、環境科学的な証拠によれば、入植者たちの到着後の10年は降雨量が少なかったらしいことだ。「干ばつの島に100人もの人を置いていったりはしないでしょう」

しかし、サイトXやサイトY、そしてハッテラス島における発見は、近年支持者の多い仮説をさらに支持する結果になっているとホートン氏は言う。それは、消えた入植者たちがいくつかの異なる道を行き、それぞれに地元の先住民たちの中に溶け込んでいったのだろうというものだ。「船の難破などの状況では、典型的に起こることです。集団がばらけて、やがて生き延びた人々の集落がいくつもできていくのです」

明らかな先例もある。1586年、ロアノークの最初の入植者たちが食糧危機に陥った際、リーダーは100人の入植者たちを分散させ、それぞれの場所で食べるものを調達できるようにした。英国に帰るまでの間、うまくいった方法だ。その行き先の中にはクロアトアンもあった。

ドーソン氏はハッテラス島の他の場所でも発掘したいと考えている。ルケッティ氏らも調査を続ける方針だ。「現時点ではデータ不足ですが、これからも調査を続けるのがよいでしょうね」とユーウェン氏は言う。

(文 ANDREW LAWLER、訳 桜木敬子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 2020年11月11日付の記事を再構成]

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