コーヒー学のすすめ 豆を科学すると世界が見える?
「コーヒーは農業と科学」。スペシャルティコーヒー専門店の堀口珈琲(東京・世田谷)創業者、堀口俊英さんの持論だ。風味の本質を究めたい、との思いが高じて2019年に69歳で博士号を取得。その旺盛な探究心の余熱は教育にも及ぶ。若者のコーヒー離れに対する危機感にも駆られ、今、提唱するのが「コーヒー学」の実践だ。コーヒーを科学すれば世界が見える。おまけに奥深い味わいにも出合える。そんなコーヒー学のすすめの本意を語ってもらった。
東京都世田谷区の小田急線千歳船橋駅近く、堀口珈琲世田谷店のはす向かいに「堀口珈琲研究所」がある。11月中旬の週末、ここで堀口さんが一般向けに開いた「テースティング初級セミナー」をのぞいてみた。
参加者は30~40代の男女8人。サンプルはパナマのゲイシャ種やケニア、インドネシアなどの豆10種類だ。粉の香りを嗅ぎ、少量の液体をグラスに注いで口に含む。「これはすごくいい香り」「うーん、違いがよくわからない……」。皆、真剣な面持ちで試飲を繰り返す。堀口さんがそれぞれの味わいの違いや豆の品質について、2時間以上かけて軽妙かつ丁寧に解説した。
長年にわたり実施してきた堀口さんのセミナーは今も根強い人気を誇る。コーヒー市場の将来は明るいと、さぞ楽観しているかと思いきや、見立てはまったく逆だ。堀口さんは若年層のコーヒー離れについてこう語る。
「しばらく前、約60人の大学生を相手にコーヒーの抽出の実習をしました。その時、そもそもコーヒーを飲んでいるのか聞いたら、だいたい飲んでいない。よく飲むっていう学生は1割もいない。昔からコーヒーを飲む機会は社会人になって増えるものだけど、今はペットボトルのお茶などへのシフトがもっと進んでいる」
――年代別の飲用機会や意識を詳しく調べた直近のデータは乏しいのですが、堀口さん自身は若者のコーヒー離れが進んでいると実感していますか?
「実感する。特に若い女性が飲む機会が少ない。人口減の日本では放っておいても需要は落ちる。学生のうちからコーヒーに親しんでもらわないと、社会人になっても飲まない。それで消費量はさらに減る。僕はそれを危惧している。業界あげて若年層にコーヒーを見直してもらう機会をつくり、需要の底上げを図るべきです」
「まず、おいしいコーヒーを飲む体験を増やさなきゃいけない。ミルクを入れても砂糖を入れてもいい。焙煎(ばいせん)によって味が変わるんだよ、ブラジルとコロンビアは味がこう違うんだよってことをきちんと伝えていく。コーヒーは非アルコール飲料の中で、最も味が複雑な飲み物です。今の消費者は味がわからないと食品業界の人が嘆くけど、だからこそ豊かな味を体験してもらって、味覚を開発しないと。いわば食育ならぬ『コーヒー育』。高校生ぐらいから啓蒙(けいもう)したい」
――「コーヒー育」を施す手立ては?
「コーヒーを媒介として様々なことを学ぶカリキュラムを整えて、その過程で実際に飲んでもらえば興味も湧く。コーヒーを学問、科学として見る機運をつくるんです。すなわち『コーヒー学』。コーヒーは市場規模が大きいし、関連産業に携わる人の数も膨大です。貿易、相場、地域の経済・生活、地球環境、歴史や文化、化学、それに健康という風に、切り口も多い。一粒のコーヒー豆を学べば世界が見える。データの整備や教育者の育成も必要だけど、とりあえずカジュアルに始めればいい」
「そもそもコーヒーの需要が落ち込めば、いい豆を作る生産者が離農して、将来、多種多様なコーヒーが飲めなくなる。気候変動や生産コストの上昇と同様、サステナビリティ(持続可能性)に関わる世界的な問題なんです。だから有力な消費国である日本でも、今のうちに危機感をもって取り組むべきです」
コーヒーをビジネスだけでなく「学び」の対象としてもとらえる。そんな発想の持ち主である堀口さんは、業界でも「遅咲きの人」だ。アパレル会社に16年勤め、ストレスだらけの毎日に嫌気が差し脱サラ。レストラン経営も考えたが体力的に無理と考え、コーヒーの可能性に着目した。3年間、豆や焙煎を研究し、喫茶店でアルバイトして繁盛店の実情を肌で知り、1990年に40歳で「珈琲工房HORIGUCHI」を創業した。
「喫茶だけでは経営は安定しないとみて、開店時から豆の小売りと卸売りも含めた"3本の矢"でやっていこうと決めた。ここは戦略的に考えましたね。味を追求し、徹底的に差別化を図りました。コーヒーを学ぶ方法論は、ワインを勉強することで身につけた。そこでテロワール(産地の風土)の概念を理解しました」
スペシャルティコーヒーのムーブメントが日本に波及した2000年ごろ、堀口さんは生産地からの直接調達に乗り出す。
「2000年代はブラジルなどの農園を訪れてパートナー作りを進める10年間でした。生豆を購入するにはバイイングの力がなきゃいけない。だから豆の卸売先を増やすために、国内で自家焙煎店の開業支援を始めた。10年間に100店はオープンさせました。02年には『堀口珈琲研究所』を立ち上げて研究にも熱を入れた。そこで『コーヒーは農業と科学』だと確信したんです」
学び、伝えることには当初から熱心だった。1999年から2016年夏まで毎月10回以上の一般人向けセミナーを実施し、執筆・監修した書籍は10冊を数える。
「でもね、ずっと忙しくて豆の栽培とか精製の研究には手が回らなかった。コーヒーの風味がどうやって生まれるのか、という疑問に何一つ答えられないことにも気づいた。そうしたら本が書けなくなっちゃったんです。ならばコーヒーの品質についてもっと勉強しよう、と。社長は13年に退いて、15年までに事業の継承は終えた。それで65歳で大学に通うことにしました」
東京農業大学の食品科学の研究室の門をたたき、社会人枠の修士認定試験を通った。16年に大学院の博士課程に入学。慣れぬ器具を使う実験に悪戦苦闘し、査読論文ではこってり絞られ、忍耐の日々の末に19年、無事修了した。
――博士課程の研究テーマは。
「生豆の品質を理化学的な数値で分析して、これが風味の官能評価(味覚など五感による評価)とどんな相関性があるのか、を研究しました。味に影響する豆の成分は主に有機酸と脂質、あとはアミノ酸と蔗(しょ)糖がある。これらの組成バランスによって風味に明確な違いが出ます。その化学的な分析データを反映させて、豆の品質を評価する新しい軸を作りたいんです」
――海外のSCA(スペシャルティコーヒー協会)ではカッピング(テイスティング)による官能評価で豆の個性や品質を判断しています。
「SCAでは酸味やフレーバー、ボディーなどの評価項目があるけれど、うま味や苦みの判断基準がなく、まだ曖昧です。これに化学的な基準を加えれば、品質評価はより的確になる」
――新しい基準を提唱しても、理解してもらえなかったり反発されたりすることもあります。ドン・キホーテ的に見られても構いませんか?
「構いません。誰かが最初に新しい考え方を提示しないと理想に近づかない。でも5年後、10年後にはこっちの方向に行くと思ってますよ」
達観、超然、異端視上等、という風情で飄々(ひょうひょう)と語る。学位論文のタイトルは「スペシャルティコーヒーの品質基準を構築するための理化学的評価と官能評価の相関性に関する研究」。もっとも、大学院に通った第二の人生は、堀口珈琲への貢献を想定してはいない。「僕はもう経営に一切タッチしていないので。研究生活はあくまで個人的な理由で、自分を完結させたいと思ったからです」
一方で「コーヒー業界には今後も役立ちたい」と話す。今回の研究成果も業界に刺激を与えられるのでは、と期待する。ほぼ10年ぶりに新しい本を執筆し、研究中は休んでいた一般人向けのセミナーも復活させた。ただし10年以上前にやめた開業支援を再開するつもりはない。「これからの時代、喫茶の店を開いても厳しい。僕は開業するのはやめなさい、と言っている」
確かにコロナ禍がコーヒー業界に及ぼす影響は計り知れず、つい悲観的にもなってしまう。だが堀口さんは、現実をシビアに見据えながらも、そこにコーヒー学という1つの処方箋を提示する。一朝一夕に実現するものではない。でも、ふとそのカリキュラムの実現を想像してみたくもなる。何やら、面白そうではある。
(名出晃)
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