見るな・見せるな・聞くな 童心の画家、師の教え貫く名古屋画廊 中山真一

水野朝《花と花よめちゃん》(1962年、121.0×91.5センチメートル、紙本着彩)
才能や感性を鋭く問われる画家らアーティストは、若き日をどう過ごしたのか。ひとつの作品を手がかりにその歩みをたどる連載「青春のギャラリー」。ガイド役は名古屋画廊社長の中山真一さん(62)です。戦中に画商となった父、その遺志を継いで画廊を守った母をもつ中山さんは「いつの世もアーティストが閉塞感を突破していく。自分を信じて先人を乗り越えていく生き方は、どんな若者にも道しるべを与えてくれるのではないか」と語ります。

無邪気な童心にたちまち帰らせてくれるかのような楽しい画面だ。気持ちがウキウキ、心もなごむ。絵に花が咲いたような。じっさいアマリリスの花も描かれている。左下に描かれているのは葉っぱだとか。大画面にしても顔をおおきく描きすぎて、下辺が少々つまることに。それにしても、めでたいめでたい。この花嫁は倖(しあわ)せになるにきまってる。モデルは母方のいとこ。モノクロの写真から描いたという。でも、顔はちゃっかり自画像だ。いずれにせよ、とても満16歳(高2)が描いたものとは思えない。

この作品《花と花よめちゃん》(1962年)の作者である水野朝は、1945年(昭和20年)に名古屋市で生まれた。小児マヒで5歳まではひとりで立つことができなかった。ただ、画才は早くから発揮する。小学校にあがると、はや1年生のとき担任教師が母親に「画家に育てたらどうか」と話した。画塾にもかよい、「朱色をひとつ使うと絵が生きる」とならう。

中学2年、偶然の出会い

中学2年生の春、友人のさそいでたまたま訪れた日本画教室に、講師の友人であった日本画家・中村正義が偶然あらわれる。水野の描くところをじっと見ていた。水野の絵は中学生といってもへんに大人びたところがなく、むしろ小学校低学年のように見えたか。いずれにせよ中村の目にはずいぶん新鮮に映ったようだ。後日、ひとを介してアトリエに来るようにとの伝言がくる。当時の中村は日展(日本最大の公募美術展)の寵児(ちょうじ)にして反逆児というスター的な存在。行かないという選択肢はなかった。

アトリエに母と行ってみると、中村は「見るな、見せるな、聞くな」という驚くべき教えを簡潔に述べる。ひとの絵を見なくてよい、自分の絵をひとに見せる必要もない、ひとのする絵の話は聞かなくてよい、と。真顔であった。のちには高校に進学するな、結婚するなとも。水野は面食らいながらも、やがてその言に従おうとしていく。月1回、スケッチブックを持って市内にある中村のアトリエにかよった。中村は、スケッチブックをゆっくりとめくりながらひと言も発しない。指導らしい指導はなかった。それでも、弟子をとらないはずの中村に、唯一の弟子が誕生することとなる。むしろ中村のほうが水野の作品を見ていつもみずからの創作でなにか感化や霊感をうけていたかもしれない。1年がたち中村が東京に移住すると、こんどは年に1回、やはりスケッチブックをたずさえて上京した。

水野にはもともと天邪鬼(あまのじゃく)なところがあったという。中村の教えが、かえって性分にあっているかもしれなかった。それにしても高校くらいは。とくに両親がそう思い、しかもいじめにあうことがないようにとの配慮から、母親が家庭科教員をつとめる公立高校にかようこととする。ちなみに、苦学して弁護士のち僧侶となった父にもまして、日本刺繍(ししゅう)をたしなみ水野の幼少期に絵本をたくさん与えてくれた母の影響を強くうけているという。

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