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「荊軻(けいか)」(書・吉岡和夫)

「荊軻(けいか)」(書・吉岡和夫)

中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(81)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「生きる目的と目標、どう違う 後世を思った史記の刺客」

易水(えきすい)にねぶか流るる寒さかな

江戸期の俳人、与謝蕪村(1716~84)の句です。ねぶかはネギ、冬の季語です。この名句は、「史記」に登場する刺客、荊軻(けいか)が易水という川のほとりで見送られる光景が下敷きになっています。60年ほど前に私が史記を読み始めたころ、最も感動したのも荊軻のドラマでした。

上役からの余計なひと言

中国・戦国時代(紀元前403~同221年)の末期、当時最大の権力者であった秦(しん)の王、政(せい、のちの始皇帝)の暗殺に失敗したのが荊軻です。今回はその理由をさぐり、大事を前にした上下関係に欠かせないものについて考えたいと思います。

 燕(えん)の太子(王位継承者)、丹(たん)は幼いころ、人質として趙の都、邯鄲(かんたん)におりました。そこに秦の人質の子として政もいました。2人はいわば幼なじみですが、のちに政が王となった秦に丹が燕の人質として赴くと、冷たくあしらわれます。丹は怒って秦を脱走し、帰国して政への復讐(ふくしゅう)を誓います。
 丹は田光(でんこう)という「処士(しょし)」に目をつけます。処士とは優れた教養や人望がありながら仕官を求めない人を指します。丹は側近の進言に従って田光を招き、礼を尽くして対秦工作を依頼しました。すると田光は「私は老いて大役は務まりません。でも、国の重大事は十分に心得ています」と、読書と撃剣を好む荊軻を推薦し、そのことを彼に伝えるべく急ぎ立ち去ろうとします。
 ここで田光を門まで見送りに出た丹のひと言は余計でした。「願はくは先生、泄(もら)す勿(なか)れ」。自分が大事を託そうと見込んだはずの人物に、わざわざ他言しないようにとクギを刺したのです。田光は笑って「はい」と答えましたが。
 田光は国の太子から機密を打ち明けられたことを重く受け止めます。そして荊軻に宮廷に行って丹の依頼に応えるよう命じたうえで「行為に疑いをもたれるようでは節義のある男とはいえない。田光は死んで話を漏らすことがなかったと告げてほしい」と語り、なんとその場で自ら自分の首をはねてしまいます。
 荊軻が田光の思いを伝えると丹は「そんなつもりはなかった」と涙をみせます。そして荊軻にスパイとなって秦王に近づくよう懇願します。うまく操るか、それができなければ刺殺する役目です。最終的に荊軻が受け入れると、丹は彼を「上卿」という高位に就け、高級な宿舎や財物を与えました。
 ところが荊軻は動こうとしません。その間も秦は勢力を拡大しており、不安を募らせた丹は荊軻をせかしました。すると荊軻は秦王を油断させるため、丹を頼って秦から燕に亡命していた将軍の首を手みやげにすることを提案します。丹はいやがりますが、荊軻は将軍に面会を求め、一族を殺した秦への復讐のためと説得して進んで自害させました。
 丹は荊軻のため、猛毒を仕込んだ短刀を用意させたうえ、「勇士」とみられていた秦舞陽(しんぶよう)という男を同行させることにしました。それでも荊軻は動きませんでした。
 荊軻は乱暴なだけで使い物にならない秦舞陽ではなく、別の同行者が到着するのを待っていました。しかしついに丹が秦舞陽を先に行かせようと言い出すと、荊軻はこれを叱りつけ、やむなく出発を決意します。
  風蕭蕭(せうせう)として易水寒し。壮士一たび去つて復(ま)た還(かへ)らず。
 ものさびしく風が鳴る易水の寒さよ。壮士がひとたび去れば、再び帰ってくることはない――。荊軻は歌い、見送る人々は涙を流しました。史記は荊軻が振り返らなかったことも書き添えています。

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