タクシー客「我善坊へ」 昭和の五輪後も旧町名に愛着
鉛筆画家 安住孝史氏
旧真砂町高台から菊坂方面を望む(画・安住孝史氏)
僕はタクシーの運転をしながら東京の街の移りかわりを見つめてきました。とくに僕の生まれ育った下町、浅草界隈(かいわい)は昭和の戦争の前から知っています。
まだ街灯も少ない時代、蝙蝠(こうもり)が飛び交う夕方になっても外で遊んでいると、母親が「人さらいに連れていかれますよ」と心配して迎えに来たことを思い出します。昭和20年(1945年)に戦争が終わり、昭和23年の春に疎開先から浅草に戻ったときには、焼けあとの原っぱがまだあちこちに残っていました。当時、国際通りにあった都電の千束町停留場から、直線で1キロメートル余りも先にある松屋浅草のデパートがよく見えたのを覚えています。
そしてタクシー運転手になったのは20代後半の昭和40年です。前年の東京オリンピックの余韻が残る高度成長期で、タクシーにとっては我が世の春でした。このころ大きく変わったのが東京の地名です。小さな町の多くが、より広い地域の一部である「丁目」に置きかえられました。今回はその当時の東京の地名にまつわる話です。
谷間にあった屋根の連なり
ある日、旧国鉄の新橋駅から「我善坊(がぜんぼう)まで」と言って男性が乗って来ました。僕より30くらいは年上にみえる年配の方です。僕が「我善坊! はい」と復唱してすぐに走り出しますと、お客様は「運転手さん場所を知っているの」とちょっとビックリした様子です。
「我善坊は地下鉄神谷町駅の隣にある小チャな町です」と答えますと、お客様は「知らない運転手が多いのに」と大変喜んでくれました。正式には麻布我善坊町で、現在は麻布台の一部になっている場所です。
町名の変更は、あちこちで反対運動が起こってもめた大問題でした。お客様は自分の町の名前に愛着があると感じましたので、僕は「町の名前を無造作に変えるのは、その町の歴史を消してしまうようで反対です」と問わず語りに話しました。