声優・水樹奈々さん 「巨人の星」ばり、父の英才教育
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は声優の水樹奈々さんだ。
――お父さんから歌の英才教育を受けたそうですね。
「『昭和の父』という言葉がぴったりの人でした。子供は男の子なら野球選手に、女の子は歌手に育てると考えていたそうで、女の子の私が生まれたので5歳から歌を教え始めました。本業は歯科技工士ですが、好きなことを追求する人で野球の審判、歌唱指導、船舶操縦などいろんな資格を持っていました」
「自宅でカラオケ教室を開き、歌好きの大人たちに教えていたのも、今から思うと父の作戦の1つだったのでしょう。大人が楽しそうに歌っている様子を見て、幼稚園児の私が『私もやってみたい』ともらすと、さっそくマンツーマンの練習が始まりました」
「レッスンは私が幼稚園や学校から帰るとすぐ始まります。場所は自宅にあった父の仕事場。歯科材料を削る騒音や粉じんの舞う悪環境で歌わされました。いつでもベストパフォーマンスで声を出せるようにと、マイクは使わせてくれませんでした」
「仕事中の父はいつも背中越しに『そんな声だとお客さんに届かないぞ』と叱咤(しった)しました。歌詞は『あしたまでに覚えてくるように』。必死で歌詞を手書きで写しました。まさに『巨人の星』を地で行く世界でした」
――素人のど自慢大会にもよく出場されたとか。
「毎週のようにイベントに参加しました。優勝は1回のみであとはよくて準優勝。帰りはいつも『あそこの歌い方が悪かった』とダメ出しの連続です。中3のときにカラオケの全国大会が開かれました。地方予選を順調に勝ち上がり、本大会で優勝。家族全員が天にも昇る心地でした」
「優勝を機に上京し、堀越高校(東京・中野)に通いながら歌の勉強を続けました。田舎を出るときは私にプレッシャーをかけたくなかったのか、父からは『がんばってこい』の一言だけ。逆に私は『デビューするまでは帰れない』と腹をくくりました」
――お父さんは水樹さんが高校を卒業した年に脳梗塞で倒れられます。
「一命はとりとめましたがずっと闘病生活でした。私は高3のときに声優オーディションに合格し、20歳で歌手デビュー。でもオリコン100位にも入らず、スケジュールはガラガラ。あのころは早く家計を助けたいという一念で歌っていましたね」
「父は2008年に75歳で亡くなりました。私が歌う様子はDVD作品では見てくれましたが、テレビ出演はなかった。正月に帰省したとき『がんばってるなー。いつか愛媛のテレビにも出てね』と言われたのが父と直に交わした最後の言葉でした。翌年にNHK紅白歌合戦に出演し約束を果たせた。離れていてもつながっていました。父がいなかったら今の私はなかったと思います」
(聞き手は生活情報部 木ノ内敏久)
[日本経済新聞夕刊2020年11月10日付]
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