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「予譲(よじょう)」(書・吉岡和夫)

「予譲(よじょう)」(書・吉岡和夫)

中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(81)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「最後に笑う「保身より恩返し」 史記が描く一族ドラマ」

「刺客」は、ただの殺し屋ではありません。少なくとも、史記「刺客列伝」に取り上げられた5人は節義や教養を備えていました。狙った大物を殺すことが目標なのですが、それは彼らの人生の目的にはなり得なかったと思われます。今回は目標を達成できなかった刺客、予譲(よじょう)の生きざまから、生きる目的について考えたいと思います。

中国・春秋時代(紀元前770~同403年)の末期、晋(しん)の国は、覇者・文公を生んだ往年の輝きを失い、家臣たちが激しく権力を争う分裂状態に陥っていました。

 予譲は晋の家臣の中でも有力だった智伯(ちはく)に仕えていました。范(はん)氏や中行(ちゅうこう)氏という重臣の家で働いたこともありましたが出世はかなわず、のちに両氏を滅ぼした智伯に身を寄せたところ、とても大事にされたのです。
 智伯はある時、同じく晋の家臣でライバルの趙襄子(ちょうじょうし)を討とうとしますが、結託した趙、韓、魏3氏の返り討ちにあい、一族を滅ぼされます。趙襄子は智伯への恨みが尋常ではなく、智伯の頭蓋骨に漆を塗って飲器(酒を飲む器)にしたと記されています。主君を失った予譲が山中に隠れていたとき発したのが次の言葉です。
  嗟乎(ああ)、士は己を知る者の為(た)めに死し、女は己を説(よろこ)ぶ者の為めに容(かたちづく)る。
 ああ、立派な男は自分を深く理解してくれる者のために死に、女は自分を愛してくれる者のために身なりを美しく飾る――。すでに年配であったと思われる予譲ですが、あだ討ちを決意します。
 予譲は名を変え、わざと囚人となって、宮中のトイレで壁塗りに従事します。趙襄子を殺すため、短刀を隠し持っていました。
 趙襄子がトイレに行こうとすると胸騒ぎがします。そこで、その場にいた囚人を捕らえて問いただすと、なんと智伯に仕えた予譲でした。予譲が悪びれることなく「智伯のため復讐(ふくしゅう)しようとしたのだ」と明かすと、趙襄子の従者たちは彼を殺そうとします。これを趙襄子は制止しました。「自分が用心すればいい。一族もろとも滅んだ智伯のために復讐しようとした彼は、天下の賢人だ」。趙襄子は予譲を許します。
 その後、予譲は体に漆を塗って容貌を変え、炭をのんで声が出ないようにして、路上で食を乞いながら過ごすようになりました。妻も予譲と気づくことがないほどでしたが、旧友のひとりは見破ります。そして「君ほどの才があれば、趙襄子に仕えるのも容易ではないか。趙襄子は君を近くに置くだろうから、襲うのは易しいはずだ。なぜ、苦難の道を選ぶのか」と問いました。
 予譲は「臣下の礼をとりながら殺そうとするのは、二心(にしん)を抱いて仕えるということだ。そんなことはしてはいけない」と反論し、趙襄子の命を狙う本当の目的を語ります。
  天下後世の人臣と為(な)って二心を懐(いだ)き以(もっ)て其(その)君に事(つか)ふる者を愧(は)ぢしめんとする也。
 後世、臣下となりながら二心を抱いて主君に仕える者を恥じ入らせるのだ――。いわば後世の戒めとなるということでしょうか。深い恩のある智伯を裏切らないだけでなく、趙襄子への面従腹背も潔しとしませんでした。殺すためならどんな手段を使ってもいいとは考えず、後世に恥じないやり方を求めたのが予譲でした。

主従関係をめぐって使われる「二心」という言葉ですが、似たような心の持ち方は、どの時代の組織においても日常的にみられるものかもしれません。史記の時代のような本当の命の奪い合いではありませんが、「会社員人生」や「政治生命」などにかかわることもあると思います。

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