試される科学 新型コロナ克服で期待と疑念が交錯も
世界の姿を変えてしまった新型コロナウイルス。ウイルスの拡散やワクチン開発に決め手がない中で、科学への信頼に不安を抱く人々もいる。新型コロナウイルスを大特集したナショナル ジオグラフィック11月号の中から、試行錯誤しながら疫病を克服しようと前進する科学者、そして科学の意義を考えてみよう。今こそ、科学の力が試されている。
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科学者たちが先を争って未知のコロナウイルスの解明に乗り出したとき、感染防止のための専門家のアドバイスには進んで従おうと思った。当初は主にせきやくしゃみによる飛沫がさまざまな物の表面に付着し、そこから感染が広がると考えられていたため、私(サイエンスライターでもある、筆者のロビン・マランツ・ヘニグ氏)は台所の調理台をきちんと拭き、手で顔に触らないように気をつけ、丁寧に手を洗うように努めた。
その後、私の住む米ニューヨーク市で都市封鎖が実施されてから2週間半ほどたった頃、専門家のアドバイスががらっと変わった。マスクをしなさい、というのである。当初は、最前線の医療従事者を除いて、一般の人はマスクを着けないようにと言われていた。方針転換はおおむね新しい仮説に基づくものだった。新型コロナウイルスは主としてエアロゾル、つまり空気中に漂う微小な粒子を介して感染する、という仮説だ。
どちらが本当なのか。接触感染かエアロゾル感染か。エレベーターのボタンに触ることより、そばにいる人の吐く息を警戒すべきなのか。科学者は本当にわかっているのだろうか。
マスクについてのアドバイスが変わったことで、私は不安になった。問題は新しい方針そのものではない。専門家が推奨するなら私は喜んでマスクをする。気になるのは科学者たちが場当たり的に対応しているのではないか、ということだ。世界で最も優秀な専門家が最も真剣に発信するメッセージがにわかに色あせ、せいぜい経験知に基づく「善意の推測」にすぎないように思えてきた。
ここで少し立ち止まって考えてみよう。科学者たちが新型コロナウイルスをより正確に把握し、この感染症の予防法を突きとめようと、衆人環視のなか、大慌てで右往左往する様子を目の当たりにしたことは、長期的にどんな影響を及ぼすのか。私のような科学オタクでさえ、科学者たちが議論し、意見の一致を見ず、見解を変え、再検討する姿を見ていると落ち着かない気分になった。白衣のヒーローが現れて、一気に問題を解決してくれないか。そんなむなしい希望にすがりたくなった。
科学者たちが、一見手に負えない、この恐ろしい疫病から私たちを救おうと奮闘している今、もう一つの幸福な結末を思い描くこともできる。人々がただこの危機を生き延びられるだけでなく、その経験を通じて英知を得る、という結末だ。この悲惨な経験から何か大きな教訓を学ぶとすれば、それは「生存が脅かされる危機を乗り越える手だてとして、科学がたどるプロセスを信頼していい」ということかもしれない。私はそこに希望を見いだしている。
間違えてはいけない。私たちが直面しているのは、とてつもなく困難な、これまでに経験したことのない事態だ。新型コロナウイルスは、米国立アレルギー・感染症研究所のアンソニー・ファウチ所長が「最悪の悪夢」と呼ぶほど高い感染力と致死性をもっている。出現したときには世界中の誰一人として免疫をもっていなかったし、呼気や飛沫を通じて人から人へと簡単に広がる。そして、これが最も厄介な特徴かもしれないが、このウイルスの感染力は発症前が高い。言い換えれば、人にうつす確率が最も高い時期に、感染者が自覚のないまま出歩いてしまうのである。
体の防御機能をかわすために、このウイルスが使うトリックは、残忍なまでに効果的だ。鼻か口を通って体内に入り込むと、免疫の最初の防御をすり抜け、やすやすと細胞内に侵入し、自己のコピーをどんどん作る。遺伝子の複製ミスが起きた場合は、それを修正する"校正機能"まであり、これはほかの多くのウイルスにはない機能だ。新型コロナウイルスが起こしうる症状は多様で、容赦なく体をむしばむ。肺の細胞は機能しなくなり、X線画像にはすりガラスのような影が映る。増殖したウイルスは、小さな血栓をたくさん作って血管を破裂させたり、詰まらせたりする。腎臓や心臓、肝臓も機能不全に陥る。このウイルスは、過剰な免疫反応を引き起こし、体を守るはずのシステムが、逆に徹底的に破壊するように仕向ける。そして、感染者と密接に接触した人もまた、どのくらいの確率かは誰にもわからないが、感染するリスクが高い。
新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)が全世界を脅かすなか、この疫病との闘いもまた全世界が見守るなかで果敢に進められている。科学研究では、新たな仮説の構築や検証は通常、専門家の会議や、新しい論文の掲載に時間がかかる学術誌上で行われるが、今や一般市民までそこに首を突っ込んでいる。テレビ番組、フェイスブックやツイッター、世間話の場でも、コロナ対策が論じられている。
この厄介な疫病に協力して立ち向かおうと、ウイルス学や感染症とはかけ離れた専門家も含め、世界中の何千、何万人もの研究者たちが研究体制を整えてきた。政府間の対立すらものともせず、研究者が国境を越えて、これほど多く、短期間に結集するのは前代未聞のことだ。
「この危機に対処しようと、人々が尽力している様子を見て感動しています」と、米エール大学世界保健司法パートナーシップの共同代表、グレッグ・ゴンサルベス氏は話した。「科学とはまったく違う分野で教育を受けてきた人でさえ、何らかの貢献をしようとしているのです」
世界中の研究者たちがコロナ対策に集中したおかげで、驚くほど短期間に、多くの情報が得られた。動物からヒトへの感染が初めて確認されてから数週間でウイルスの全ゲノム配列が解読され、2020年夏までには米国で270種を超える治療薬候補の臨床試験が始まった。ワクチン開発には、米国、中国、英国、インド、ドイツ、スペイン、カナダ、タイなど多くの国の研究チームが総力を挙げて取り組み、8月初めまでに165以上の候補が出そろった。開発のペースがあまりに速いため、日ごろは新薬の認可には大規模な臨床試験が不可欠だと力説する、極端に慎重な現実主義者のファウチ所長でさえ、21年早々にはワクチンが入手できる可能性があると、「慎重ながらも楽観的な見方」を示したほどだ。その見通しが当たれば、これまでのワクチン開発の最速記録を3年も短縮できることになる。
ただ早く結果を出そうと焦るあまりに、科学そのものが評判を落とすことだ。研究者たちがとるべき手順を便宜的に省いたり、データに基づく結論から大幅に飛躍した見解を発表したりすれば、自分たちが依拠している方法を意図せずおとしめることになりかねない。モースと話をして程なく、私は米ジョンズ・ホプキンス大学ブルームバーグ公衆衛生大学院の疫学者と生物統計学者のチームが発表した論文を読んだ。実際そこには、今回の感染症に関する初期の研究の多くは、データ処理に問題があり、有用性が低いことが示唆されていた。
中国、米国などの国々で初期に実施された201件の臨床試験を精査したところ、手順を省いたものが多数あったという。治療の有効性を明確に定義していない論文が3分の1を占め、半数近くは被験者が100人以下と規模が小さく、参考外だった。解釈の偏りを防ぐため、どの患者が試験中の治療を受けたか、医師にわからないようにする「盲検法」をとっていないものは3分の2にのぼった。
とはいえ、見方によっては希望はある。新型コロナウイルスの解明に苦戦する科学者たちの姿を目の当たりにすることで、科学のプロセスについて、社会全体の理解が深まるかもしれないからだ。科学に懐疑的だった人たちも、パンデミックをきっかけに、人類の繁栄のために科学の発見が果たす重要な役割を理解するかもしれない。
科学者たちの試行錯誤が一般の人々の目に留まることは、最終的に良い効果を生むかもしれない。科学に対する信頼を構築する最善の方法は結局、仮説の検証と修正を何度も繰り返す過程を包み隠さず人々に見せることだ。パンデミックの解決策を一刻も早く知りたい人々はイライラするかもしれないが、それは私たちが生き延びて、前に進めるような研究結果を導き出すただ一つの方法なのである。
(文 ロビン・マランツ・ヘニグ、写真 ジャイルズ・プライス、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2020年11月号の記事を再構成]
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