えっ、ここでお客様? タクシー運転手のラッキー体験鉛筆画家 安住孝史氏

とにかく道なりに走っていると、前方を歩いていた男性が、急にこちらを振り返り、手を挙げたのです。タクシーをさがしていたお客様でした。しかも行き先は東京都板橋区にある大山駅付近で、距離は約20キロメートルくらいでしょうか。男性は幹線道路に出るまで道案内をしてくれましたし、東京方面に帰路でお客様を乗せられたわけですから、ちょっとあり得ない幸運でした。

同じような話はまだあります。現在はさいたま市にある中浦和駅の近くでお客様を降ろした帰り道。その日、最後のお客様で水揚げも上出来でしたので、すぐのところにあった別所沼公園で気持ちよく深呼吸でもしていこうと思い立ちました。車を止めて沼のほとりに近づくと、人の気配がします。男の人が用を足していたのです。僕は気づかぬふりをして車に戻ろうとしたのですが、男の人の方が「ちょいと待て」と言います。「タクシーなら乗せてくれ」と。

どちらの「ミノワ」ですか

埼玉県内ですから、東京方面じゃないと困ると内心では思いましたが、取りあえず車で待ちました。そして、車のところに来た男性が口にした行き先は「ミノワ」。僕にとって三ノ輪は浅草のご近所ですが、同じ地名で別の場所ということもありますから「東京のタクシーなんです。どちらのミノワですか」と確認すると、返事は意外にも「東京だ」。

これは会社に帰るのと一緒です。道順を告げて走り始めると、お客様は道をよく知っていると褒めてくれました。それで三ノ輪は会社のそばであることを伝えますと、お客様は「運の良い運転手だ」と笑いました。「友達のところにいたが遅くなった。家は三ノ輪の大関横丁だ」と、当たり前ですが地元住民ならではのご指示です。

お客様は「浦和はうなぎ屋が多く、しかもうまい。友達のところに来ると、よく食べに行く」と教えてくれました。僕もうなぎ屋でアルバイトした経験があることを話し「板さんがうなぎを焼くのを見ていましたが、あれは難しいものですねえ」と口にすると、お客様も相づちを打たれ、しばしうなぎ談義で盛り上がりました。お客様は建具関係の職人さんらしく、そうした「技」に強い関心があるようで、ご自身は「仕事は一球入魂」と語っていました。

それにしても、なぜ自分は別所沼で休憩する気になったのだろうと、あとから考えても不思議でなりません。沼のほとりの暗闇での出逢(あ)いもできすぎでした。

僕は絵を描くとき、タクシー勤務をまとめて休みました。ふたつ同時に取り組むことは難しいのです。会社の社長たちも、1人くらいそういう運転手がいてもいいだろうと許してくれました。

車は便利ですが、走る凶器でもあります。タクシーを運転していると、悲惨な事故現場を目にする機会も少なくありません。ですから絵のことを考えながら運転するのは怖いと思いました。何かをしながら他のことを考え、行動する「ながら」はいけないのです。

人生の不思議な経験を思い起こすと、絵には絵の神様、タクシーの運転にはタクシーの神様がいるように思います。もちろん、あらゆる職業にそれを見守る神様がいて、真摯に仕事と向き合うと幸運をもたらしてくれる。あまり科学的ではありませんが、まもなく83歳となる僕の実感です。

安住孝史
1937年(昭和12年)東京生まれ。画家を志し、大学の建築科を中退。70年に初個展。消しゴムを使わない独自の技法で鉛筆画を描き続ける。タクシー運転手は通算20年余り務め、2016年に運転免許を返納した。児童を含めた芸術活動を支援する悠美会国際美術展(東京・中央)の理事も務める。画文集に「東京 夜の町角」(河出書房新社)、「東京・昭和のおもかげ」(日貿出版社)など。

管理職・ミドル世代の転職なら――「エグゼクティブ転職」

5分でわかる「エグゼクティブ力」
いま、あなたの市場価値は?

>> 診断を受けてみる(無料)

「エグゼクティブ転職」は、日本経済新聞社グループが運営する 次世代リーダーの転職支援サイトです

NIKKEI 日経HR


今こそ始める学び特集
ブックコーナー ビジネス書などの書評はこちら
注目記事
今こそ始める学び特集
ブックコーナー ビジネス書などの書評はこちら
NIKKEI STYLEは日本経済新聞社と日経BPが共同運営しています NIKKEI 日経BPNo reproduction without permission.