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追悼・高田賢三さん 秘められた愛と赤裸々な告白

編集委員 小林明

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NIKKEI STYLE

世界的ファッションデザイナーとして活躍してきた高田賢三さん(81)が2020年10月4日、新型コロナウイルス感染のため、パリ郊外の病院で死去した。1970年にパリでデビューして以来、パリコレを代表する人気デザイナーとして活躍してきた賢三さんは、パリに根付き、パリに最も愛された日本人デザイナーだった。そんな賢三さんが人生の全足跡を回想し、赤裸々に語ったのが最初で最後の唯一の自伝「高田賢三自伝 夢の回想録」(2017年、日本経済新聞出版)である。

秘められた恋人・自己破産・飲酒運転…

高貴な貴族の末裔(まつえい)で公私をともにした男性パートナーのグザビエ・ドゥ・カステラ、さらにイブ・サンローランのミューズ(女神)だった女性モデルのルル・ド・ラ・ファレーズとの秘められた恋愛関係、「ケンゾー」の経営方針を巡って対立したLVMHモエヘネシー・ルイヴィトンのベルナール・アルノー会長との壮絶な確執、さらに自己破産、飲酒運転による逮捕などスキャンダラスな数々の逸話に彩られている。

共同執筆者として長期間、本人に密着してインタビューを続け、パリや故郷の兵庫県姫路市をはじめ、京都、箱根、長野県須坂市などへも同行取材してきた思い出を踏まえ、賢三さんの人生のハイライトやとっておきの秘話を抜粋して紹介する。

生前、賢三さんと一緒に兵庫県姫路市にあった実家(現在は取り壊されて大きなマンションが建っている)の周辺を散策したことがある。実家は姫路城の北方にある花街で「浪花楼」という待合を営んでいた。多くの芸者があでやかに奏でる三味線や長唄の歌声を聞きながら育ったという。「中学に上がるくらいから待合の意味が徐々に分かってくるでしょう……。すごく嫌でしたよ」と振り返る。

繊細で女性的な感性を育んだ姫路時代

賢三さんは5男2女の兄弟姉妹の三男。長男や次男とはかなり年齢が離れていたため、4つ上の長女や2つ上の次女と一緒に遊ぶことが多かった。そのため、野球や缶蹴りなど男児が好む屋外の遊びではなく、おはじきや人形ごっこなど屋内の遊びの方が好きだった。和だんすにしまわれた鮮やかな反物や毛糸玉でもよく遊んだそうだ。そんな姉たちの影響もあり、自然の成り行きで、少女雑誌「ひまわり」や宝塚歌劇、恋愛映画などの世界にのめり込んでゆく。

デザイナーとしての繊細な美意識や女性的な感性はこんな環境で育まれたようだ。

地元の名門、姫路西高校から神戸市外大に進むまでは真面目で目立たないガリ勉タイプだった。だが運命を大きく変えるのは通学途上の列車内で見かけた1枚の広告。女子学生しか入学できなかった文化服装学院が初めて男子生徒にも門戸を開くことになったという。「はなから無理だと思い、文化服装学院への進学は人生の選択肢に入れていなかった」らしい。

もともと色彩の組み合わせや衣装には興味があったし、絵を描くのも得意だったことから、父親らの猛反対を押し切って「大学を中退して文化服装学院に進もう」と決意する。いったん目標が定まれば「自分でも驚くほどの行動力を発揮する」のが賢三さん。豆腐配達のアルバイトなどを黙々とこなしながら学費や生活費を稼ぎ、大学を中退して単身で上京。質素なアパート暮らしを始める。

競い合った「花の9期生」、モード界の「トキワ荘」

才能が一気に開花するのは、文化服装学院に入学してデザイン科に進んだ1959年4月。後に同じくファッションデザイナーになるコシノジュンコさん、松田光弘さん(「ニコル」創業)、金子功さん(「ピンクハウス」創業)ら「花の9期生」と同級生になった。ここで人生序盤の大きなヤマ場を迎える。

最年長で早稲田大学出身の松田さんは東京・八王子の呉服問屋の息子で全体の取りまとめ役だった。金子さんは長沢節先生の教室にも通っていたデザイン画の名手。紅一点のコシノさんはだんじり祭で知られる大阪・岸和田出身で物おじしない活動的な女性。峰岸徹さんや大原麗子さんら芸能人が出入りする「六本木野獣会」にも顔を出すなど人脈がめっぽう広い。

4人は自主勉強会を開いたり、高名な先生にデザイン画を批評してもらいに行ったり、独自にスポンサーを見つけて作品を発表するショーを開いたり……。切磋琢磨(せっさたくま)しながら、勉強にも遊びにも真剣に取り組み、デザイナーとして大きく成長する。多くの才能が1カ所に集い、競い合う様子は、手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫各氏ら多くの有名漫画家を生み出した東京・南長崎の「トキワ荘」をほうふつさせる。成長するためにライバルの存在がいかに重要かを物語るエピソードだ。

「花の9期生」のほか、多摩美大の学生だった三宅一生さんらも交えて激しく競い合ったのが新人デザイナーの登竜門「装苑賞」である。デザイン科2年目の60年上期に最初にコシノさんが受賞し、続く60年下期には賢三さんも受賞。デザイナーとしての道筋が急速に開ける。ちなみにコシノさんの受賞作を強く推したのが当時、「太陽の季節」(古川卓巳監督)、「彼岸花」(小津安二郎監督)などヒット映画の衣装を数多く手がけていた売れっ子デザイナーの森英恵さんだった。「僕も森先生の服にはすごく憧れていたので、どうしても選んでもらいたくて何度も応募したけど、結局、選んでもらえなかった」と賢三さんはかなり悔しかったそうだ。

パリでデザイン画を売り込み、「世界のケンゾー」の快進撃

卒業後、松田さんとともに三愛に勤めていた賢三さんは64年末に渡仏を決意する。直前にコシノさんが欧州視察旅行に出かけていたので刺激を受けたらしい。松田さんと2人で三愛に「半年間の休暇願」を出し、横浜からマルセイユまで客船「カンボジア号」で1カ月かけて渡航する。東南アジア、中近東、アフリカ、欧州……。途中の寄港地で見た様々な民俗衣装は後の作風に多大な影響を与えた。

松田さんは米国経由でそのまま日本に帰国したが、パリに魅せられた賢三さんはしばらく滞在を延期しようと模索する。このパリ滞在中に思いっ切り見聞を広め、時代の最先端の潮流を肌身で体感した。

そして4カ月後。ホテルの小さな部屋で突然、デザイン画を描き始め、「つたない英語」でルイ・フェローや雑誌「エル」編集部などに直接売り込みに行く。「『デザイン画を批評してもらえたらもうけ物だ』くらいの軽い気持ちで売り込んでみたら、何枚も買ってくれたので驚いた。だからもっと自分の力を試してみたいと思うようになった」と賢三さん。この辺りの回想は同じ日本人としても心がワクワクと躍る感動的な場面だ。

こうして「世界のケンゾー」がパリで誕生し、快進撃を続ける出発点となる。

ブティック名が訴訟沙汰に、パリコレを救った「プレタの旗手」

賢三さんが70年にパリに初めて自分のブティックを開いてデビューしたのも、文化服装学院の「花の9期生」らライバルたちへの強い競争意識があったから。同期の多くが自らのブティックを東京に開店し、独自の世界観を表現していた。賢三さんにも焦りがあったようだ。

最初のブティックを開いた場所はルーヴル美術館にほど近いギャルリー・ヴィヴィエンヌ。店名は「ジャングル・ジャップ」とした。「日本人であることを逆手に取ったちゃめっ気のつもりだった」というが、これが米国の日系人団体から「ジャップは日本人への蔑称だ」と抗議を受け、訴訟沙汰にまで発展する。

だが、そんなゴタゴタが起きても、四角い平面と直線裁ちを組み合わせた民族衣装や着心地の良いゆったりした作風、ディスコや映画館を会場にして流行音楽を流すという斬新なショー形式が爆発的な人気を博し、賢三さんはパリコレを代表するトップデザイナーとして飛躍を遂げる。

当時、パリにもベトナム反戦やヒッピー文化など変革の嵐が吹き荒れ、既成概念が根底から揺らぎつつあった。モードの重心も富裕層向けの格式張ったオートクチュール(注文服)から大衆向けの若者も楽しめるプレタポルテ(既製服)へと大きくシフトし、パリは新たな才能の登場を求めていたのだ。そんなパリに「プレタポルテの騎手」として見いだされ、育てられたのが賢三さんだった。その期待通り「パリコレの救世主」となる。

イブ・サンローラン、カール・ラガーフェルドと絡み合う糸

パリコレに欠かせない3人のデザイナーがいる。賢三さんとイブ・サンローラン、カール・ラガーフェルドだ。

イブは弱冠21歳で「クリスチャン・ディオール」の主任デザイナーに抜てきされ、その後、自らのブランドを立ち上げ、長年「パリコレの帝王」として君臨する。

カールは「フェンディ」「シャネル」の主任デザイナーとして活躍し、同時に自らのブランドのデザインも手がけるエネルギッシュなクリエーター。実はこの3人は夜の社交界でも恋人やパートナーを巡って火花を散らし、絡み合う複雑な関係だった。

イブにはピエール・ベルジェ、カールにはジャック・ドゥ・バシェール、賢三さんにはグザビエ・ドゥ・カステラという同性の恋人がいた。ジャックとグザビエは大親友。賢三さんはジャックを通じてグザビエと知り合う。そしてイブは……。なんとカールからジャックを横取りしようとして恋敵となり、険悪な関係に陥ってしまう。

さらに複雑なのは、イブ・サンローランの女性イメージモデルだったルル・ド・ラ・ファレーズが賢三さんと恋に落ち、一時期、恋人関係にあったこと。これにはイブの恋人兼ビジネスパートナーのベルジェが露骨に不快感を示し、ドロドロの愛憎劇が繰り広げられる……。こうした複雑な人間模様はモード界の醜聞としてメディアに派手に取り上げられ、映画の題材にもなる。

最愛の恋人グザビエ、LVMH総帥との確執……

「生涯で最愛のパートナーだった」というグザビエを回想する場面はあまりにも美しい。

ルイ14世から伯爵の称号をもらった貴族の末裔で建築に詳しいグザビエは賢三さんに桂離宮や龍安寺の石庭に込められた禅の思想を解説し、ベルサイユ宮殿の大運河と鏡の間に仕掛けられた秘密をドラマチックに見せてくれる。それが建築への興味を駆り立て、2人の関係を強く結び付け、日本庭園まで備えた数寄屋造りの大邸宅の建設へと向かわせる。

膨大な財政負担は「ケンゾー」ブランドの経営基盤も揺るがしてゆく……。

晩年の最大の悲劇は、なんといっても「ケンゾー」の全株式を買い上げたLVMHモエヘネシー・ルイヴィトンのアルノー会長との激しい対立と決別だろう。背景には決して他言してはならないと口止めされた「紳士協定」の存在があった……。

あまりにも純粋で無防備だった賢三さん。だが最後まで誰にも束縛されず、自分の心に正直に生き切った。その人生のスケールの大きさと痛快な生きざまを改めてかみしめ、哀悼の意をささげたい。

(編集委員 小林明)

夢の回想録 高田賢三自伝

著者 : 高田 賢三
出版 : 日本経済新聞出版
価格 : 2,090 円(税込み)

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