追悼・高田賢三さん 秘められた愛と赤裸々な告白編集委員 小林明

文化服装学院卒業後に母校を訪れた「花の9期生」(左から金子功さん、松田光弘さん、1人置いて高田賢三さん、コシノジュンコさん)

競い合った「花の9期生」、モード界の「トキワ荘」

才能が一気に開花するのは、文化服装学院に入学してデザイン科に進んだ1959年4月。後に同じくファッションデザイナーになるコシノジュンコさん、松田光弘さん(「ニコル」創業)、金子功さん(「ピンクハウス」創業)ら「花の9期生」と同級生になった。ここで人生序盤の大きなヤマ場を迎える。

最年長で早稲田大学出身の松田さんは東京・八王子の呉服問屋の息子で全体の取りまとめ役だった。金子さんは長沢節先生の教室にも通っていたデザイン画の名手。紅一点のコシノさんはだんじり祭で知られる大阪・岸和田出身で物おじしない活動的な女性。峰岸徹さんや大原麗子さんら芸能人が出入りする「六本木野獣会」にも顔を出すなど人脈がめっぽう広い。

4人は自主勉強会を開いたり、高名な先生にデザイン画を批評してもらいに行ったり、独自にスポンサーを見つけて作品を発表するショーを開いたり……。切磋琢磨(せっさたくま)しながら、勉強にも遊びにも真剣に取り組み、デザイナーとして大きく成長する。多くの才能が1カ所に集い、競い合う様子は、手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫各氏ら多くの有名漫画家を生み出した東京・南長崎の「トキワ荘」をほうふつさせる。成長するためにライバルの存在がいかに重要かを物語るエピソードだ。

「花の9期生」のほか、多摩美大の学生だった三宅一生さんらも交えて激しく競い合ったのが新人デザイナーの登竜門「装苑賞」である。デザイン科2年目の60年上期に最初にコシノさんが受賞し、続く60年下期には賢三さんも受賞。デザイナーとしての道筋が急速に開ける。ちなみにコシノさんの受賞作を強く推したのが当時、「太陽の季節」(古川卓巳監督)、「彼岸花」(小津安二郎監督)などヒット映画の衣装を数多く手がけていた売れっ子デザイナーの森英恵さんだった。「僕も森先生の服にはすごく憧れていたので、どうしても選んでもらいたくて何度も応募したけど、結局、選んでもらえなかった」と賢三さんはかなり悔しかったそうだ。

パリでデザイン画を売り込み、「世界のケンゾー」の快進撃

卒業後、松田さんとともに三愛に勤めていた賢三さんは64年末に渡仏を決意する。直前にコシノさんが欧州視察旅行に出かけていたので刺激を受けたらしい。松田さんと2人で三愛に「半年間の休暇願」を出し、横浜からマルセイユまで客船「カンボジア号」で1カ月かけて渡航する。東南アジア、中近東、アフリカ、欧州……。途中の寄港地で見た様々な民俗衣装は後の作風に多大な影響を与えた。

松田さんは米国経由でそのまま日本に帰国したが、パリに魅せられた賢三さんはしばらく滞在を延期しようと模索する。このパリ滞在中に思いっ切り見聞を広め、時代の最先端の潮流を肌身で体感した。

そして4カ月後。ホテルの小さな部屋で突然、デザイン画を描き始め、「つたない英語」でルイ・フェローや雑誌「エル」編集部などに直接売り込みに行く。「『デザイン画を批評してもらえたらもうけ物だ』くらいの軽い気持ちで売り込んでみたら、何枚も買ってくれたので驚いた。だからもっと自分の力を試してみたいと思うようになった」と賢三さん。この辺りの回想は同じ日本人としても心がワクワクと躍る感動的な場面だ。

こうして「世界のケンゾー」がパリで誕生し、快進撃を続ける出発点となる。

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