トランプ大統領も復帰 未承認モノクローナル抗体の力
トランプ米大統領の新型コロナウイルス感染は、ホワイトハウスのトップに起こった健康危機としてはここ数十年で最大だった。これまで米国では何百万人もの感染者が確認されており、トランプ氏自身もその1人に加わったことになる。
トランプ氏は2020年10月2日に首都ワシントン郊外のウォルター・リード軍医療センターに入院。同日の入院前にはホワイトハウスで酸素吸入を受けていたと報じられた。その後、症状が改善し、米東部時間10月5日午後6時40分ごろ(日本時間10月6日午前7時40分ごろ)に退院した。ただし主治医による経過観察と治療はしばらく継続されるという。
トランプ氏の主治医らは様々な薬剤を用いて治療に当たった。その1つが「モノクローナル抗体(中和抗体)カクテル」と呼ばれる臨床試験段階の未承認薬だ。この薬については、安全性や効果がまだ十分に立証されていないため、使用には不安の声も上がっていた。
「私たちは、国家の危機と人1人の生命の危機が交わるところをリアルタイムで目撃しています」。トランプ氏が入院していた当時、米ボストン市ブリガム・アンド・ウィメンズ病院のジェレミー・ファウスト医師はそう話していた。
モノクローナル抗体は、新型コロナウイルスに対する素早い反応を免疫系に促すと期待されている。考え方としては新型コロナ回復者の血漿(けっしょう)を用いる治療法と似ているが、モノクローナル抗体は単なる血液からの抽出物ではなく、バイオエンジニアリング技術によって精密に作られる点が異なる。しかしトランプ氏に投与された米バイオテクノロジー企業リジェネロン・・ファーマシューティカルズの「REGN-COV2」は、まだ臨床試験のデータが出そろっていない。
リジェネロンがナショナル ジオグラフィックに述べたところによると、人道的見地からの特例措置としてREGN-COV2の投与を受けた人はトランプ氏だけではない。同社の広報担当者アレクサンドラ・ボウイ氏によれば、これまでに「まれで特例的な状況」にあった10人未満がこの治療薬を投与された。
医療上のプライバシーのため、同じく新型コロナ陽性と判定されたメラニア・トランプ大統領夫人や政府高官らがREGN-COV2を投与されたかどうかは明かせないとし、「今後も個別の要求についてはその都度判断してまいります」とボウイ氏は答えた。
モロクローナル抗体とは?
抗体は、免疫系が病原体に反応して作り出すY字型のたんぱく質だ。重要な役割は2つある。1つは、ウイルスに取り付き、ウイルスが細胞に侵入して複製するのを防ぐこと。もう1つは、病原体に目印を付け、免疫を担う他の細胞やたんぱく質が退治できるようにすることだ。
ワクチンは体に抗体を作らせる。一方、モノクローナル抗体や回復者の血漿を用いた治療は、患者の体内に直接、抗体を送り込む。どちらも感染症と闘う免疫系にアドバンテージを与えるのが目的だ。
「トランプ氏の免疫系は今、ウイルスと闘っていて、もしウイルスが勝てば悲惨な結果になりえます」。リジェネロンのレオナルド・シュライファー最高経営責任者(CEO)はトランプ氏が入院した10月2日の夜、米CNNにそう語っていた。「私たちが作る抗体は、その闘いで免疫系が有利になるようにするのです」
新型コロナ回復者の血液から抽出する血漿には、様々な種類の抗体が含まれる可能性があるのに対して、モノクローナル抗体は特定の対象を攻撃するようにできている。新型コロナウイルスを対象としたモノクローナル抗体は、鼻や口でウイルスが生存できないようにし、肺に到達して深刻な症状を引き起こすのを防ぐ。
「理論的には、『そもそも肺に行けるようなウイルスがいない』という状態を作りたいわけです」。米ノースカロライナ大学チャペルヒル校の感染症専門医であり、COVID-19予防試験ネットワーク(CoVPN)を率いるマイロン・コーエン氏はそう説明する。「心配すべきは鼻への感染ではなく、下気道への感染です」
米製薬大手イーライリリーをはじめとする多くの企業は、新型コロナ回復者の血液を調べて抗体の開発に役立てようとしている。リジェネロンの場合は、ヒトの免疫系を持たせたいわゆるヒト化マウスに新型コロナウイルスを感染させ、抗体を作り出すヒトの免疫細胞を抽出した。
その中から、新型コロナウイルスのスパイクたんぱく質に最もよく結合する抗体を作れる細胞がどれかを調べる。スパイクたんぱく質は、ウイルスがヒトの細胞に侵入する際に鍵の役割を果たす。
こうした選別過程を経て、特定の1種類(モノ)の抗体のみを作るクローン細胞の株が生み出される。それを使って作られるのが「モノクローナル」抗体だ。
先日、米紙ワシントン・ポストのキャロリン・ジョンソン氏が伝えたように、リジェネロンではハムスターの卵巣由来の細胞を用いて抗体を大量に生産している。巨大なタンクの中で細胞を培養し、そこから抗体を抽出する。
最終的にでき上がるREGN-COV2には、新型コロナウイルスへの結合のしかたが少しずつ異なる2種類のモノクローナル抗体が含まれる。エイズウイルス(HIV)に対して複数の抗ウイルス薬を併用する「カクテル」療法と同じように、この抗体の「デュオ」もウイルスに対してより効果的だと考えられている。
効果と安全性は?
REGN-COV2は効果と安全性の確認がまだ取れていないため、試験段階にある治療薬ということになる。米食品医薬品局(FDA)は、回復者の血漿や抗ウイルス薬「レムデシビル」と違い、REGN-COV2に対しては緊急使用許可を出していない。
あらゆる治療法は、臨床試験において検証が行われるのが原則だ。患者を、その薬を投与するグループと、効果がないとされるプラセボ薬を与えるグループにランダムに振り分け、結果を比較する。リジェネロンのREGN-COV2は、こうした試験の初期段階にある。完全な結果がまだ公表されていないこともあり、この治療薬の使用を懸念した医療関係者もいた。まして大国のリーダーに使うとなるとなおさらだ。
しかしトランプ氏の医師団は、それでも投与したほうがいいと考えるほど大統領の状態を憂慮したのだとブリガム・アンド・ウィメンズ病院のファウスト氏は話す。
リジェネロンは9月29日に投資家およびメディア向けの会見を開き、最初の275人の患者に実施した臨床試験の暫定的な結果を発表した。それによると、自分自身の抗体が十分に作られていなかった患者に対し、REGN-COV2を8グラム投与(血管に注入)したところ、鼻の中のウイルス量が減少した。また、症状が軽減する傾向も見られたが、統計的に有意な差が出るには至っていないという。同社はなるべく早い時期に正式な結果を発表したいとしている。
リジェネロンと提携してREGN-COV2の予防的治療薬としての効果を検証しているCoVPNのコーエン氏は、今のところモノクローナル抗体の安全性に問題はなく、「安全でないと考えるべき理由もありません」と話す。「ウイルスのスパイクたんぱく質を攻撃するものですので、どう考えてもヒトの組織には干渉しません」
しかし、抗体治療には懸念材料がつきまとう。その1つが、特定の状況下ではかえってウイルスがヒトの細胞と結合する能力を高めてしまい、病状を深刻化させる可能性だ。
抗体依存性感染増強(ADE)と呼ばれるこの現象は、少なくともREGN-COV2を用いた動物実験では見られていない。ただし、この結果を記した論文はまだ査読を終えていない。
リジェネロンのボウイ氏によれば、これまでに2000人以上が臨床試験に参加し、データを追跡している独立した委員会で安全性への懸念が示されたこともないという。「安全性は私たちの最大の関心事であり、常に注意深く見守っていますが、今のところ問題は起きていません」
とはいえ、トランプ氏に投与すべきだったかどうかについては疑問が残る。1つには、リジェネロン社が結果を公表した初期の臨床試験は、トランプ氏より30歳も若い平均年齢44歳の患者に対して行われたという点だ。年齢層によってREGN-COV2への反応が異なるかどうかについて、同社ではまだ十分なデータを得られていないという。ただし、免疫系が弱っている高年齢者のほうが、得られるメリットは大きい可能性があるとコーエン氏は指摘する。
ほかにトランプ氏が用いた薬は?
トランプ氏の主治医のショーン・コンリー氏は10月2日の記者会見で、大統領がREGN-COV2の他にも様々なサプリメントや薬を使用していると話した。
それは、一般的に免疫を強化するとされるビタミンDや亜鉛などだ。ただし亜鉛は、新型コロナの治療法として効果が否定された抗マラリア薬のヒドロキシクロロキンとも関係する。併用すると効果があると報じられたことがあるからだ。
トランプ氏はさらに、高齢男性における心臓病予防に効果的とされているため、低用量のアスピリンを毎日服用している。心臓病は新型コロナ感染症を重症化させる既往症であり、トランプ氏は少なくとも18年の健康診断以降、アスピリンを服用している。
緊急治療にはREGN-COV2以外にも、臨床試験段階にある治療薬が少なくとも3つ用いられた。そのうち、睡眠を助けるメラトニンと胸やけ治療薬のファモチジンの2つは、新型コロナ感染症で併発しやすい炎症を軽減する効果が期待される。
トランプ氏はさらに、当初エボラ熱のために開発された抗ウイルス薬「レムデシビル」をFDAの緊急使用許可を受けて投与された。これまでのところレムデシビルには、回復までの時間をやや短縮する効果があることが臨床データで示されている。
(文 MICHAEL GRESHKO、訳 桜木敬子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2020年10月6日付の記事を再構成]
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