
セルフ式の目黒店はHD子会社で菅野さんが社長を務めるプレミアムコーヒー&ティー社が運営し、フルサービス式の他の2店はドトールコーヒーが運営主体。商業ビル2階の立地で主力ブレンドが税込み1000円超の銀座店はコロナの影響を免れないが、目黒店は今も多くの客が「目的地」として足を運ぶ。
「静かにくつろげる非日常的な雰囲気が評価されているのでしょう。注文後、目の前で自分のコーヒーが点(た)てられている様子ものんびり眺められる。なにより、最高級コーヒーの価値をお客が理解してくれています」
菅野さんは、コーヒーでもてなす場合に「淹(い)れる」ではなく「点(た)てる」と表現する。
「僕が重視するのはお客が店で『愉(たの)しむ』こと。単に与えられた環境で『楽しむ』のではなく、日常では味わえないこだわりのコーヒーと空間を体験しようとお客が能動的に訪れて、心から愉しむ。神乃珈琲はそうした時間を過ごす価値を表現し、世の中に発信できていると思います」

自動車業界では車を愛してやまず、卓越した知識を有する人をカー・ガイと呼ぶ。菅野さんはいわばコーヒー・ガイ。国際品評会の審査員を務め、今春には日本スペシャルティコーヒー協会(SCAJ)の会長に就いた。理想の味と店を探し求める旅の途上で育んだコーヒー愛と知見の集大成が、この神乃珈琲なのだ。
コーヒーに目覚めたのは1966年、7歳の時。ハワイ移民の親戚から届いた米MJBのコーヒーを父親が淹れ、それを少しだけ飲んでみた。
「苦くておいしいとは思わなかったけれど、大人しか飲めないものに魅了されたというか。中学生になると図書館でコーヒー関係の本を読みあさり、お年玉でサイホンを買いました。駅前の店でブラジルとコロンビアの粉を100グラムずつ買って、自分でブレンドも試しました」
もっとも当時、コーヒーは趣味に過ぎなかった。理系の菅野さんは上場企業のメーカーに就職した。転機は20歳の夏。友人らと遊びに行った海でドトール創業者、鳥羽博道さんの弟の法俊さんに出会う。友人の一人が社員だったのだ。
「浜辺で相撲をとろうとなって、僕が法俊さんをぶん投げた。そしたら『お前、根性あるな、ウチに来いよ』と誘われて。大きな会社の小さな歯車のままでいいのか、と悩み始めた時期だったので、転職を決断しました」
入社した79年はドトールコーヒーショップ(DCS)開業の1年前。まだ社員30人ほどの小さな会社だった。ルートセールスで頭角を現し、やがて横浜営業所長に。博道さんに認められてパスタ専門店のチェーン運営も任された。そして94年、希望して関東工場の工場長に就いた。