G-SHOCKの生みの親 苦戦の就活、カシオから救いの声カシオ計算機 伊部菊雄(1)

日経クロストレンド

G-SHOCK生みの親、カシオ計算機 羽村技術センター 開発本部 開発推進統轄部 プロデュース部 第一企画室 シニアフェローの伊部菊雄
G-SHOCK生みの親、カシオ計算機 羽村技術センター 開発本部 開発推進統轄部 プロデュース部 第一企画室 シニアフェローの伊部菊雄
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人の心を揺さぶるモノを“創る人”たちは、そのとき何を考え、どこまで先を見通していたのか。生い立ち、なぜその職業を選んだのか、転機、哲学――。様々な世界で時代を動かしたクリエイターを、ノンフィクション作家の田崎健太氏が丹念なインタビューで描く。今回は世界で累計1億個以上を売り上げたタフな腕時計、カシオ計算機「G-SHOCK」を生み出した技術者、伊部菊雄に迫る。

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人は年齢を重ねる中で、軽重はあれど自らに課す「掟(おきて)」を持つものだ。それを破ればもっと要領よく生きていけると逡巡(しゅんじゅん)すれど、「過去の自分を否定できない」と守り続けるような、決まり事である。G-SHOCK生みの親、カシオ計算機の伊部菊雄がそれを見つけたのは、高校卒業後の浪人生活でだった。

医者を諦め、消去法で選んできた道

伊部菊雄は1952年11月、新潟県柏崎市で生まれた。冬には積雪のせいで2階から出入りした記憶がある。ただ、海沿いの柏崎は豪雪地帯ではない。近隣を訪ねたときの思い出かもしれない。一家は伊部が幼稚園のとき、東京・池袋の椎名町に引っ越した。ほぼ東京出身、と言っていいだろう。

最初になりたいと思ったのは医師だった。

「親が医者とか、そういうことじゃないです。ただ漠然と人の役に立ちたいというのがあったと思います」

転機が訪れたのは小学校の理科の授業だった。イモ虫の解剖をすることになった。動いているイモ虫を見たとき、足がすくんだ。

「生きているイモ虫をナイフで切るというのをかわいそうに思ってしまった。手が震えて、クラスで私だけができなかった。もともと、血を見るのが好きではなかった。絶対に医者には向いていないと、そのとき諦めました」

その後、都立の練馬高校に進んだ。

「学校群制度(入試実施方法の一つ。いくつかの学校で『群れ』を作り、その中で学力が平均になるように合格者を振り分ける方法)があったのはご存じですか。自分の好きな学校には行けない時代でした。それで勝手に振り分けられて練馬高校に行くことになりました」

52年生まれの伊部は、47~49年生まれの団塊世代の後に当たる。数が多い団塊世代は、ブルドーザーのようにその後の社会を変えていくことになる。伊部たちはその飛沫をもろにかぶった世代だった。

団塊世代は受験戦争の嚆矢(こうし)となった。日比谷高校など一部の公立高校に生徒が集中した。その対策として東京都は67年から学校群制度を導入。伊部が中学校を卒業する前年だった。

高校では卓球部に入った。

「卓球部って当時、人気があったんです。みんな練習が緩いと思っているから。ところが私の入った卓球部が、土日も練習するような、学校でベスト3に入るくらい厳しいクラブだったんです。みんな入ったはいいけど、ぼろぼろと辞めていく。私はせっかく入ると決めたんだから、継続してみようと思った。継続するのはいいんですけれど、高校3年生の夏休みまで毎日練習なんですよ」

当時、卓球の強豪校はみな私立高校だった。練馬高校卓球部は、東京都予選で勝ち進むことはない。勝利を味わいたい、ではなく、「最初に決めたことを貫かなくてはならない」という思いだった。

「クラブが終わってから受験モードになったんです。でも、時すでに遅しですよ」と、伊部は笑った。

「大学入試は全敗。滑り止めの滑り止めまで全部落ちました。半年間必死で勉強したって、そんな簡単に入れないですよね」

志望は理系学部だった。しかし、取り立てて数学などの理系科目が得意というわけではなかったという。

「文系科目ができなかったから。文系科目と比較すると、そっちのほうができるというだけ。小学生のときに医者を諦めてから、特になりたい職業もなかった。(文系科目の)暗記が全く駄目でした。好きじゃないから勉強しない、当然、成績も伸びない。文系科目をやらないから国立(大学)は行けない。それで私立理系になった」

「私の人生は消去法なんです」と、伊部はほほ笑んだ。

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