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G-SHOCKの生みの親 苦戦の就活、カシオから救いの声

カシオ計算機 伊部菊雄(1)

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NIKKEI STYLE

日経クロストレンド

人の心を揺さぶるモノを"創る人"たちは、そのとき何を考え、どこまで先を見通していたのか。生い立ち、なぜその職業を選んだのか、転機、哲学――。様々な世界で時代を動かしたクリエイターを、ノンフィクション作家の田崎健太氏が丹念なインタビューで描く。今回は世界で累計1億個以上を売り上げたタフな腕時計、カシオ計算機「G-SHOCK」を生み出した技術者、伊部菊雄に迫る。

◇  ◇  ◇

人は年齢を重ねる中で、軽重はあれど自らに課す「掟(おきて)」を持つものだ。それを破ればもっと要領よく生きていけると逡巡(しゅんじゅん)すれど、「過去の自分を否定できない」と守り続けるような、決まり事である。G-SHOCK生みの親、カシオ計算機の伊部菊雄がそれを見つけたのは、高校卒業後の浪人生活でだった。

医者を諦め、消去法で選んできた道

伊部菊雄は1952年11月、新潟県柏崎市で生まれた。冬には積雪のせいで2階から出入りした記憶がある。ただ、海沿いの柏崎は豪雪地帯ではない。近隣を訪ねたときの思い出かもしれない。一家は伊部が幼稚園のとき、東京・池袋の椎名町に引っ越した。ほぼ東京出身、と言っていいだろう。

最初になりたいと思ったのは医師だった。

「親が医者とか、そういうことじゃないです。ただ漠然と人の役に立ちたいというのがあったと思います」

転機が訪れたのは小学校の理科の授業だった。イモ虫の解剖をすることになった。動いているイモ虫を見たとき、足がすくんだ。

「生きているイモ虫をナイフで切るというのをかわいそうに思ってしまった。手が震えて、クラスで私だけができなかった。もともと、血を見るのが好きではなかった。絶対に医者には向いていないと、そのとき諦めました」

その後、都立の練馬高校に進んだ。

「学校群制度(入試実施方法の一つ。いくつかの学校で『群れ』を作り、その中で学力が平均になるように合格者を振り分ける方法)があったのはご存じですか。自分の好きな学校には行けない時代でした。それで勝手に振り分けられて練馬高校に行くことになりました」

52年生まれの伊部は、47~49年生まれの団塊世代の後に当たる。数が多い団塊世代は、ブルドーザーのようにその後の社会を変えていくことになる。伊部たちはその飛沫をもろにかぶった世代だった。

団塊世代は受験戦争の嚆矢(こうし)となった。日比谷高校など一部の公立高校に生徒が集中した。その対策として東京都は67年から学校群制度を導入。伊部が中学校を卒業する前年だった。

高校では卓球部に入った。

「卓球部って当時、人気があったんです。みんな練習が緩いと思っているから。ところが私の入った卓球部が、土日も練習するような、学校でベスト3に入るくらい厳しいクラブだったんです。みんな入ったはいいけど、ぼろぼろと辞めていく。私はせっかく入ると決めたんだから、継続してみようと思った。継続するのはいいんですけれど、高校3年生の夏休みまで毎日練習なんですよ」

当時、卓球の強豪校はみな私立高校だった。練馬高校卓球部は、東京都予選で勝ち進むことはない。勝利を味わいたい、ではなく、「最初に決めたことを貫かなくてはならない」という思いだった。

「クラブが終わってから受験モードになったんです。でも、時すでに遅しですよ」と、伊部は笑った。

「大学入試は全敗。滑り止めの滑り止めまで全部落ちました。半年間必死で勉強したって、そんな簡単に入れないですよね」

志望は理系学部だった。しかし、取り立てて数学などの理系科目が得意というわけではなかったという。

「文系科目ができなかったから。文系科目と比較すると、そっちのほうができるというだけ。小学生のときに医者を諦めてから、特になりたい職業もなかった。(文系科目の)暗記が全く駄目でした。好きじゃないから勉強しない、当然、成績も伸びない。文系科目をやらないから国立(大学)は行けない。それで私立理系になった」

「私の人生は消去法なんです」と、伊部はほほ笑んだ。

浪人生時代に見つけた「掟」

予備校は代々木ゼミナールを選んだ。入ったばかりの4月末に公開模擬試験が行われた。伊部は試験用紙を前にして、こんなに難しい問題を誰が解くことができるのだろうと首をかしげたという。

「戻ってきた点数がとてつもなかった。模試だから順位も出る。受験者数が5桁(1万人台)で、ぼくの後ろにはほとんどいなかった。そもそも代ゼミに入るとき、試験を受けるクラスと無試験クラスがあったんです。ぼくはもう試験に落ちるのが嫌だったので、無試験クラスを選んでいた。ただ、模試の結果を受けて、ふと考えたんですね。このまま普通に勉強していても、翌年絶対に受からない。とにかく自分のやれるだけのことをやろうと」

1日24時間を表にして、睡眠、食事、予備校への移動時間などを書き込んだ。残った時間は10時間だった。

「10時間とにかくやってみる。1日も休まないって決めたんです」

当初はなかなか結果が出なかった。

「基礎学力が低かったんでしょう。一向に成績は上がっていかなかった。それでも諦めずに1日も休まずにずっと勉強していました。そうしたら、夏休みを過ぎたあたりから、急激に成績が伸びてきた。そして年が明けて、受験が近くなってきたとき、(代ゼミ内で)成績優秀者として名前が張り出されるぐらいになった」

そのとき、こう思ったんですと、伊部は続けた。

「スポーツや芸術面は努力だけでは通用しないですよね。必ず才能が伴う。でも、こと勉強に関しては自分の努力でどうにかなるところがあるって」

簡単に諦めない、一度決めたことはやり通す――これが伊部の人生を貫く一つの指針となる。

志望校と学部を決めたのは、受験直前だった。

「それまでどこに行きたいとか全くなかったんです。土壇場になって予備校から(志望校を)出せと言われた。私は高校まで男女共学で来ている。私立の理系ってだいたい(文系学部と)校舎が違うんです。それは嫌だったんです。全学部一緒(のキャンパス)の大学を探すと、なかなかない」

その数少ない例外が、上智大学理工学部だった。

「学科を全部書き出して、数学科とか、行きたくない学科を消していったんです。そして残ったのが機械工学でした」

「ここも消去法で決めたんです。子供の頃から機械に興味があったんですか、と聞かれると本当につらい」と、苦笑いした。

機械工学とは機械の設計、製作などを中心とする工学分野である。

「私たちの学科では(内燃機関である)エンジンの設計が多かった。設計を自分では得意だと思ったことはないですね。今はパソコンでやりますけど、私の(学生)時代は『ドラフター(設計製図台)』で線を引いていくんです。すごく細かい世界。私が苦手だと思ったのは空間把握、その能力が決定的に劣っているんです」

伊部によると、設計の難しさとは頭の中で3次元でどのような形になるのか想像をして、2次元の図面を書くことだという。

「頭の中で3次元(での形)を想像できるんですけれど、図面に落とし込むときに思考がうまくいかないんです」

自分には何が向いているのか模索しながら大学4年生になり、就職活動の時期を迎えた。

苦境に下りてきたくもの糸

「私が4年生になったのは、就職協定が変更になった年でした。一つ上の学年までは大学の研究室に届いた求人票を机の上に並べて、じゃあここに行こうかなって選ぶんです。私もそういう形で会社を決めるものだと思っていた。ところが私の年から、自分の行きたい会社に行って、面接、試験を受けなさいってシステムが変わってしまったんです」

就職活動の解禁日は9月1日だった。この日、伊部はあるメーカーの本社に行った。

「就業時間前に行ってみたら、入り口に誰もいない。この会社、人気ないんだなと思っていた。会社が始まったと同時に人事に通された。そうしたら、(人事担当者に)開口一番、お説教を食らいました。採用はもう決まっていますよ、あなたは今まで何をやっていたんですか、もう行くところはないですよって」

協定変更直後ということもあったろう、人気企業は水面下ですでに採用活動を行っていたのだ。

「そこから(会社を)回り始めたら、大半の企業が門前払いだった」

もはや希望業種にこだわっている余裕はなかった。手当たり次第に、まだ募集を締め切っていない企業に申し込むことにした。

「専門とか行きたい業種とかは関係なかったです。アパレルにも行きました。製薬会社を受けたとき、面接官から『あなた、うちに来て、何をやりますか』と、尋ねられたこともありましたね」

伊部の記憶によると30社以上に落ちたという。

伊部が苦戦したのは、出足が遅かったことに加えて、専門科目の成績が悪かったからだ。

「理系の場合、通常は最終面接の前に専門面接というのがあるんです。そのときに専門科目の成績の話になる。ぼくの時代は専門科目って、一度で通る確率が低かった。中には1割しか合格しない科目もあったぐらい。要領のいい人は2年かけて『A(評価)』を取るんです。私はそういうのが嫌だから、どんなに難しい科目でも1回しか受けなかった。一発で通すということは『C(評価)』がつくということ。2年かけてAと1年でCって、成績表に出てこない。だから専門面接のときに、君の成績はCのオンパレードだねって言われちゃうんです」

そんなある日のことだった。池袋にある企業を訪問した後、かばんから『会社四季報』を取り出した。この当時は新卒のための就職情報誌は存在しなかった。伊部たち就活生は、会社四季報を見ながら会社を回っていたのだ。

「池袋から山手線と中央線を使って(大学のある)四谷に戻るとき、新宿を通りますよね。新宿みたいな大きなところには絶対、会社があるはずだと思ったんです」

ぱらぱらと会社四季報をめくっていると、あるページに目が留まった。新宿住友ビルに本社を置く企業だった。

「あっ、ラッキーと思って、新宿住友ビルに行ったんです。そうしたら受付の女性に『来てくださってありがとうございます』て言われたんです。ただ、会社説明会は全部終わっています、と。どうも私が行った日が、最後の会社説明会だったみたいなんです。それでも、せっかく来てくださったので、学校名と名前、連絡先だけを書いていただけますかと言われました」

伊部は、ああ、ここも駄目だったと肩を落としながら、差し出された紙に連絡先を記入した。

それからしばらくたち、伊部の自宅に連絡が入った。入社試験を行うので受験しませんかという誘いだった。駄目だと思って連絡先を書いてきた企業――カシオ計算機の人事部からだった。

そして、伊部は入社試験を受けることになった。天から下りてきた"くもの糸"にすがるような気持ちだった。

(敬称略・つづく)

(ノンフィクション作家 田崎健太、写真 酒井康治)

[日経クロストレンド 2020年8月19日の記事を再構成]

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