山本寛斎、D・ボウイとの共演を辞退 「戦メリ」秘話編集委員 小林明

大学時代はアイビーに夢中、バイト先のTV局でおしゃれ勝負

――岐阜ではどんな少年時代を過ごしましたか。

「小学校まではとても内向的で、成績表に『気が弱くて、感受性が強い』と書かれていました。でも中学に入ると性格がガラリと変わります。中1のとき、親友が生徒会長の選挙に立候補したので、全校生徒の前で応援演説したら、それが大受けしたんです。以来、人前で話すことに快感を覚えるようになり、学校の人気者になっていました。体格がいいし弁も立つ。自信がみなぎり、1年のくせに応援団長になってしまいます。皆に一目置かれる番長のような存在でした」

小学校では内向的だったが、中1で応援団長になり、おしゃれにも目覚めた(2017年5月19日、事務所本社で)

「おしゃれに目覚めたのもこのころ。お金はなかったけど、黒い学生服の下に白いトレパンを組み合わせたり、石原裕次郎さんらがはいていた細身のマンボズボンをまねてパンツを自分で細く縫い直したり、色々工夫していました。おしゃれでは絶対に人に負けたくなかったですからね」

――「VAN」「JUN」などアイビーファッションに夢中になったそうですね。

「1962年に日本大学英文科に入学してから、雑誌『メンズクラブ』などを参考にお金のほとんどをファッションに費やしていました。友人の紹介で日本テレビのフロアアシスタントのアルバイトもしていたんですよ。担当したのはドラマ『地方記者』とバラエティー番組『シャボン玉ホリデー』。雑用ばかりでしたが、スタジオで青島幸男さん、堺正章さん、梓みちよさん、ドリフターズら芸能人の方々をよくお見かけしていました。局内ですれ違う相手とは、常におしゃれの真剣勝負。相手を値踏みしながら、『おぬしできるな』とか『よし、こちらが勝ったぞ』とか、ファッション感覚を自分なりに磨いていました」

加藤登紀子とシャンソンで競う、コシノジュンコに弟子入り

若手デザイナー時代の山本寛斎さん(1970年代、アトリエで)

――シャンソンコンクールにも挑戦しましたね。

「優勝したらパリ行きチケットがもらえるというので、それを目当てに応募したんです。20、21歳のころかな。でも歌のレッスンなんてした経験がありません。当日、父に仕立ててもらった白いジャケットを着て舞台に立つと、ピアノの伴奏者に『キーはどうしますか』と聞かれたので、『適当にやってくれ』と答えて、英語で『愛の賛歌』を熱唱しました。でも出だしのキーがまったく合わず、最後まで調子が出ないまま鐘1つで終わってしまった。まあ、当然の結果です。ちなみに東大生だった加藤登紀子さんもコンクールに参加していて、見事に優勝したそうです(65年)」

――デザイナーを目指すきっかけになったのは何ですか。

「上京後、横浜の母の家に通うようになっていました。母は敷地に洋裁教室を作り、裁縫を教えていたんです。ある日、教室の書棚にあった『装苑』という雑誌を眺めていたら、元国鉄職員がデザイナーになったという記事が目に入った。『そうか、素人でもデザイナーになれるんだ!』と刺激を受け、自分もデザイン画を学ぶことにしました。日大の先輩でデザイナー集団を率いていた浜野安宏さんをはじめ、コシノジュンコさん、細野久さんらのアトリエにも弟子入りして修行を積みます。毎日、デザイン画を描きながら『装苑賞』に応募し、落選してもめげずに挑戦し続け、ついに67年に受賞することができました。まさに死に物狂いでつかんだ栄誉でした」

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