山本寛斎、D・ボウイとの共演を辞退 「戦メリ」秘話編集委員 小林明

英ロックスター、デビッド・ボウイ(右)の舞台衣装をチェックする山本寛斎さん。「出火吐暴威(デビッド・ボウイ)」の当て字が見える(1973年、撮影は鋤田正義さん)
英ロックスター、デビッド・ボウイ(右)の舞台衣装をチェックする山本寛斎さん。「出火吐暴威(デビッド・ボウイ)」の当て字が見える(1973年、撮影は鋤田正義さん)

世界的なファッションデザイナーでイベントプロデューサーとしても活躍してきた山本寛斎さんが7月21日、急性骨髄性白血病のために76歳で死去した。自分や他人を鼓舞する元気の源となったのは、創造意欲や自己表現への燃えるような渇望だった。壮絶で破天荒な人生の軌跡や意外な有名人との出会いなどの秘話を過去のインタビューから抜粋して紹介する。

弟2人を連れて高知へ、寂しさの恐怖から脱出したい

75歳の誕生日に取材に応じた山本寛斎さん(2019年2月8日、事務所本社で)

――人生で最初の記憶は何ですか。

「鮮やかな色の金魚ですね……。母方の実家があった横浜の上大岡で育ったんですが、近所に金魚の養殖屋さんがあって、大雨が降ると、養殖の池の水と一緒によく金魚が道路に流されてきたんです。両親はすでに離婚していて、母は周囲から『子供を早く手放して再婚しなさい』とプレッシャーを受けていたらしい。母がハッピーでないと、その気持ちも子供に以心伝心で伝わるものですよね。7歳のころ、長男の私は2人の弟と一緒に、父親の実家があった高知に引き取られることになります。切符を誰に買ってもらったのかさえよく覚えていません。とにかく兄弟3人で列車や連絡船を乗り継いで高知まで行ったんです」

――子供だけで横浜から高知まで行ったんですか?

「ええ……。幼い弟たちを抱え、兄として『これからどうなるんだろう』という不安で胸が張り裂けそうでした。列車の車窓から見えた風景は生涯忘れられません。夕暮れの中、家の窓に小さな電灯が点々とともり、ひとつひとつに幸せな家族のだんらんがある。でも自分たちは温かいだんらんの対極にいた。『寂しさの恐怖から何とか抜け出したい』。そんな強烈な思いが、私を明るく陽気な世界に駆り立ててきたのかもしれません。3人は横浜から岡山の宇野で鈍行列車を降り、宇高連絡船で高松まで行き、徳島経由で何とか高知にたどり着きました」

鉄条網に囲われた相談所、引っ越しは計10回以上

山本寛斎さん(左)と母と2人の弟の記念写真(母と別れる前に横浜・上大岡の写真館で撮影)

――高知ではどんな生活を送ったんですか。

「兄弟3人とも児童相談所に預けられました。施設は少年院のように鉄条網で囲われており、いくら待っても親族が引き取りに来ない。相談所の人に『米穀(配給)通帳を持ってるか』と聞かれたので、『持っておりません』と答えたら、すぐに態度が変わり、冷たくあしらわれるようになりました。米穀通帳を持っていなければ、3人ともただの穀潰しですからね」

「栄養バランスが悪かったせいか、一番下の弟は毎晩のようにおねしょをします。兄弟3人は相談所で邪魔者扱いでした。毎日、空腹でひもじいので、皆が寝静まった深夜、鉄条網の外にあった畑に行き、サツマイモを手で掘り、生でかぶりついたりしていました。寂しさに耐え切れず、相談所から脱走したこともあります。しばらくは学校にも通っていなかったんじゃないかな」

――父親はどんな人でしたか。

「仕立屋の職人でなかなかハンサムな男性でした。でも子供を顧みるようなタイプではなかった。異性とのロマンスに情熱を注ぎ、わりと律義に結婚と離婚を繰り返していましたね。私が岐阜の小学校に落ち着くまで、高知、大阪などへと引っ越しを計10回以上も経験します」

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