インタープリター・和田夏実さん 手話で育ち世界学ぶ
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はインタープリターの和田夏実さんだ。
――ご両親は聴覚障害のあるろう者とうかがいました。
「私は健聴者ですが、家庭では手話を第1言語に育ちました。母は静岡生まれの東京育ち。静岡で銀行員をしていた祖父は娘を教育方針に合うろう学校に入れるため東京に移り、画材屋を営んでいました。母も芸術に関心を高め、女子美術大学を卒業しました。自由で奔放な人で、25歳ごろ、日本文化を海外に発信するイベントに参加し、フランス中をバイクで走り回ったそうです」
「子育て中もパワフルで、耳の聞こえない子どものためのフリースクールを立ち上げたり、私の通う学校には行事で登壇する人の横に手話通訳をつけるようお願いしたりと、社会と積極的に関わっていました。私の同級生の保護者らが手話を学び始めるほどでした」
「長野県出身の父は歯科技工士として県庁に勤めています。私も高校まで長野市に住んでいました。父は故郷の戸隠に私を連れて行き、山や川で遊ばせ、自然の中で感じた思いをどう手話にするか、丁寧に教えてくれました」
――ご実家ではホームステイを受け入れていたそうですね。
「私が小学2年生のとき一軒家を建て、ろう者を中心に海外から来る人たちを年に3~5人迎えました。発話言語と同じく、手話も国によって違い、同じ言葉でも国ごとの文化や気候の違いで表現が変わります。例えば『食べる』は日本では箸を使うしぐさ、米国ではパンをつかむ動作で表します。ゲストの身体に残る情景や記憶を見せてもらっている感覚になります。ゲストの国の手話を意識して使ったりもしました」
「父は絵を描くようなジェスチャーで冗談を飛ばし、軽々と国籍の壁を乗り越えていました。父の冗談にみんなが盛り上がりました。長野という地方にいながら、世界を広げるのがうまい両親を見ていて、ろうが障がいだと意識させられたことは一度もありませんでした」
――大学進学を機に上京されました。
「人口の多い都会で社会との接点が増える中、ろう者や手話の話者がマイノリティーとして扱われるなど、心がざらつく場面が増えました。これまで両親が居心地のいい世界を広げようと腐心していたのを痛感したのです」
「今はインタープリター(解釈者・媒介者)として、契約を結んだ人のイメージや身体の感覚を解釈し、多くの人に伝わるよう表現を工夫する仕事をしています。その人独自の作品やアイデアが世界に発信されず、なかったことになるのは惜しい。毎日が模索の日々です。私を心配しながらも、両親は発表の場には必ず来て、娘なりの答えの探し方を温かく見守ってくれています」
[日本経済新聞夕刊2020年9月8日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。