コロナワクチン接種義務の未来 米国社会が示唆する姿
大事な試合を観戦するため、あなたはチケットを握り締めて競技場に向かっている。しかし、競技場の周囲には長い列。原因は競技場の入り口だ。みんなが財布やポケットから小さな紙切れを取り出していて、入り口を通過するには、それを係員に提示しなければならない。コロナワクチン接種の証明書だ。
いま、一部の専門家はこのような未来を予想している。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のワクチンを接種したと証明しなければ、スポーツを観戦することも、店でマニキュアを買うことも、仕事に行くことも、列車に乗ることもできない未来だ。
「ワクチン警察があなたの自宅のドアをたたき壊し、無理やり注射を打つようなことはないでしょう」と、米ニューヨーク大学医学部の生命倫理学者アーサー・キャプラン氏は述べている。
ただし、学童、軍関係者、医療従事者がある種の予防接種を義務づけられているように、キャプラン氏をはじめとする複数の医療政策専門家は、地方自治体や雇用主が予防接種を制度化あるいは強制する未来を思い描いている(編注:日本の法律では努力義務規定にとどまり、予防接種を受けるかどうかを最終的に決定するのは本人か保護者)。
米国では、予防接種義務のほとんどは連邦政府によって発令される。予防接種の実施に関する諮問委員会(ACIP)が小児と成人のワクチン接種に関する提言を行い、州議会または市議会が最終決定を下す。
予防接種の義務は公立学校の通学と関連づけられることが多く、50州すべてが公立学校の生徒に対し、医学的、宗教的、哲学的な理由がない限り、いくつかのワクチンを接種するよう義務づけている。
従業員や一般市民など、成人の予防接種義務は、小児ほど広く課されていないが、決して前例がないわけではない。州や市が住民に予防接種を義務づけることは可能で、実際に行われている。
例えば、マサチューセッツ州ケンブリッジでは1901年、21歳以上の全住民を対象に、天然痘の予防接種を義務づける法律が採択された。違反者には5ドルの罰金が科された。現在の物価に換算すると約150ドル(約1万6000円)だ。この法律に異議を唱える住民もいたが、裁判で敗訴した(米国で天然痘が最後に発生したのは1949年)。
義務を果たした報酬は自由
米軍では、破傷風、ジフテリア、A型肝炎、ポリオ(小児まひ)などの予防接種が義務づけられている。一部の州では、医療機関で働く人々が百日咳、水痘、麻疹(はしか)、流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)、風疹などの予防接種を義務づけられている。さらに、多くの場合、医療機関は雇用の条件として、追加のワクチン接種を求めている。法律上は、全業界の全雇用主が従業員にワクチン接種を強制できる。
顧客へのワクチン接種の義務づけも認められている。はだしの人や上半身裸の人がレストランやサロン、競技場、店舗に入ることを禁止できるように、「あらゆる差別禁止法に抵触しない限り」、事業主はどんな理由でも人々の出入りを禁止できると、カリフォルニア大学ヘイスティングス法科大学院の教授で、医療と予防接種の関連法を専門とするドリット・ルービンシュタイン・ライス氏は言う。
コロナワクチンが入手可能になれば、州は業界を指定し、従業員に接種を強制するよう求めると、複数の専門家が予想している。具体的には、いわゆる「エッセンシャルワーカー」が対象になりそうだ。
「食料品店の従業員は多くの人と接触するだけでなく、仕事の性質上、多くの人に感染させる可能性があります。食料品を購入する必要がない人はほとんどいません」と、ハーバード大学法科大学院ピートリーフロムセンターのエグゼクティブディレクター、カーメル・シャハー氏は話す。レストラン、バー、コーヒーショップで働く人など、接客業の従事者が接種義務の対象になる可能性もある。
「職場をウイルスから守り、職場内での感染を防ぐことは、雇用主の利益になります」とシャハー氏は説明する。「広く入手可能なワクチンがあれば、多くの雇用主は顧客の行動を制限する必要がなくなります」。さらに、従業員がワクチン接種を受けていれば、「たとえレストランで給仕する客がCOVID-19に感染していても、もう心配する必要はありません」
一般市民にワクチンを接種する動機を与えることも可能だ。「おかしな話ですが、義務を課すための最善策は、義務を果たした報酬として自由を与えることです」とキャプラン氏は話す。例えば、「正しいことをした報酬として」、ワクチン接種の証明をスポーツイベント参加の条件にすることもできる。「私のレストラン、ボウリング場、タトゥーショップに来たければ、ワクチン接種証明書が必要です。人々がこのように言い出す日が来るかもしれません」
ワクチンの効果によっては、追加の接種が必要になるかもしれない。コロラド大学デンバー校の救急医学教授ローレン・グロスマン氏によれば、インフルエンザワクチンの予防効果は接種した時点でおよそ70%前後であり、毎年接種する必要があるという。スタンフォード大学の教授で、医療政策を専門とするイボンヌ・マルドナド氏は、コロナワクチンの場合も持続的な免疫が得られず、何度も接種が必要になる可能性があると警告する。もしそうなれば、ワクチン接種義務に追加した分の証明も含まれることになるだろう。
インフルエンザワクチンと似た価格帯
予防接種の強制には課題もあるが、不可能というわけではなく、前例もある。例えば、現在、エミレーツ航空でドバイに行く場合、COVID-19の検査が陰性だったことを証明しなければ搭乗できない。
ライス氏は未来の予想として、連邦法でコロナワクチン接種の証明がパスポート取得の条件となり、接種状況を示すエンブレムが導入されるかもしれないと考えている。運転免許証の更新に同様の条件が課される可能性もあると、キャプラン氏は述べる。職場では、社員証にコロナワクチン接種のステッカーが貼られ、公共のイベントでは、医師の発行する証明書が接種の証拠になるかもしれない。
「何かの予約をするとき、免疫証明書にサインする時代が来るかもしれません」とグロスマン氏は話す。
現在、150以上のコロナワクチンの開発が進められている。価格も少しずつ明らかになっており、有望なワクチンは1回4~37ドル(約400~3900円)と見積もられている。インフルエンザワクチンとよく似た価格帯だ。
人材マネジメント協会(SHRM)HRナレッジセンターの所長を務めるアンバー・クレイトン氏は、雇用主が従業員にコロナワクチンの接種を義務づける場合、費用の一部を負担したり、接種のための休暇を設定したり、職場で接種を行ったりする可能性があると述べている。医療保険のない人や低所得者、失業者を支援するため、一部の当局者はワクチン接種の無償化を示唆しているが、プログラムの詳細は発表されていない。
安全性がカギに
コロナワクチンの接種が実際に義務になった場合、すべての人が歓迎するわけではなさそうだ。ギャラップによる最新の世論調査では、米国民の実に35%が、たとえ無料でもコロナワクチンを接種しないという結果が出ている。米国では、反ワクチンは低水準を維持しているものの、着実に増加しており、小児のワクチン接種率が低下していると示唆する研究結果もある。
キャプラン氏は反ワクチン派を声高な少数派と表現する。しばしば説得力のあるキャンペーンを展開し、ワクチンの恐怖を広めようとするためだ。例えば、一部の反ワクチン派は、すべての学童が義務づけられているはしか、おたふくかぜ、風疹の新三種混合(MMR)ワクチンについて、自閉症の原因になると主張している。この主張は間違いだと証明されたが、MMRワクチンの接種率は低下している。
新型コロナウイルス感染症のワクチンは開発中で、まだ承認されていないにもかかわらず、すでに反ワクチン派のキャンペーンが拡散し始めている。もしワクチン接種が義務化されれば、記録的な速さで開発されているワクチンの安全性と有効性を懸念するグループが激しく攻撃するだろうと、専門家は予測する。
コロナワクチン接種へのためらいを表明している人々の多くは、最も心配なのは安全性と述べており、米国民の一部はワクチン接種を回避するかもしれないという懸念を引き起こしている。しかし、COVID-19のワクチンは安全だと証明されれば、「大多数の人がワクチン接種を希望するでしょう」とキャプラン氏は話す。「そして、大多数の人がワクチン接種を希望すれば、わざわざ義務づける必要はありません。人々は自ら受け入れるでしょう」
(文 JILLIAN KRAMER、訳 米井香織、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2020年8月27日付]
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